74205 (Japanese)
- Rev. Don Van Antwerpen
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Unfinished Communityヴァンアントワペン ドナルド牧師
Unfinished Community
2025年4月6日

私のことを長く知っている人は私が説教台に立つとき、しばしばアメリカの福音主義派に対して私が抱いている大いなる不満について、私が隠さずに大胆に語ることを知っています。それは決して今に始まったことではなく、昔からそうです。
だからこそ、私が福音主義に対し、常に反感を持っているわけではないことを知ると、中には驚く人もいます。実際、私は今まで2回ほど、福音主義派の教会で働いていたことがあります。一度目は結婚して大学を出たばかりの頃。そして二度目は5年前に日本に来た頃のことです。
福音主義派の教会で働いていた時、ショックを受けたり、恐怖を感じたり、ゾッとするようなことをたくさん経験しました。最初に働いた教会では、音楽の賜物を神様のために用いたい10代の女性が、才能がないという理由で礼拝をリードする機会を与えられなかったり、数千ドルもするハイブランドの服を身にまとい説教台に立ち、財政的に厳しい信徒達に教会のミニストリーのために、献金をもっとするように呼びかける牧師を目にしたことありました。
しかし、そのようなことがまかり通る教会で、私の信仰をつまずかせ続けたのは、一回の大きい出来事ではなく、日々の、毎週の礼拝で起こる些細な出来事が原因でした。そして、そのような事はあまりにも論理的に人々に示されるため、人々はそれがおかしいのではないかと自問することもないわけです。
例えば、礼拝中に礼拝堂の照明をすべて消して、賛美リーダーを呼ぶ。教会バンドとして人々の前に現れる賛美リーダー達は、実は教会がお金を払って雇うプロのミュージシャン。彼らはコンサートのような音量で、「賛美」音楽を「演奏」し、礼拝に参加しに来た教会員達は、プロのボーカリストと歩調を合わせることに一生懸命になる。まるでコンサートに来たような高揚感を味わったのも束の間、その後は暗闇が、孤立が、沈黙が人々を包む。自分たちの神様への心からの賛美は、自分たちより遥かに上手く歌うことのできる人の前にかき消される。そのような礼拝が毎週繰り返されていけば、私たちは声を上げないことをいとも簡単に学んでしまうのです。
こうして文字におこしてみると、そのような礼拝のあり方が、神様の御意志だとは思えません。しかし、当時そのような礼拝に参加して違和感を覚えることはなかったのです。それどころか、そのことが自然で、当然で、それだけでなく高揚感に溢れるものだったのです。福音的な空間に足を踏み入れるということは、友人とのハイキングをジェットコースターライドに乗り換えるようなものです。ジェットコースターは、エキサイティングで楽しい一瞬を提供しますが、乗り物という小さな箱の中に閉じ込められ、そしてその箱は敷かれたレールの上になければなりません。全てが決められた環境の中で、あなたは自問することを忘れ、ただ目の前に出されることに従うしかなくなるのです。
とある福音派の教会で働いていた時のことです。礼拝の中に「罪の告白」が含まれていなかったので、そのことを問題視すると、一文の教会理事の人々と口争いになりました。「罪の告白」がその教会の礼拝の式次第に含まれていないことを初めて知ったとき、私は教会として「罪の告白」を礼拝に含む重要性を説きました。それはもう熱心に。
でもそれには理由がありました。私は個人的に知っていたのです。教会が内省をやめるとき、つまり振り返りから来る罪の自覚と、悔い改めをしないと、どんな恐ろしいことが起こるかを。しかし、「罪の告白」の重要性を説けば説くほど、一部の教会指導者、理事会員より激しい反対にあいました。罪や悔い改めについては、自分のプライベートの時間に一人で個人的に考えればよいこと。人々はポジティブなエネルギーを感じるために、高揚感を少しでも引き延ばすために、もっと幸せな気持ちをを感じることができるように教会の礼拝に来ているのであって、暗く落ち込むために教会に来ているのではない。そう言われたのです。
あなたがそれを聞いたとしたら、どう思うでしょうか?神様との時間を喜びと感謝に溢れる、充実した幸せの満ちた時間にしたいと、思うことは当然。私たちは、自分の人生における暗闇の部分を、神様が取り除いでくれることを期待して当然。だから、何故礼拝において、「罪の告白」などという、自分の中にある暗闇に向き合うということをしなければならないのでしょう?
「罪の告白」は暗いから、礼拝に取り入れるべきではない。そのような反対にあった私は、口論がそれ以上エスカレートしないためにその問題を手放すことを選びました。要はこれは今戦うバトルは値しないと結論づけたのです。また少し経てば、受難節(イエス様が十字架にかからなければならない理由ー人間の罪深さに向き合う時のことを指す)がやってくる。その時に罪についてまた教会として考えることができるはずだ。そう思ったのです。
受難節はキリスト教の教会暦の中で、最も暗い季節の一つです。特に棕櫚の日曜日(十字架にかかるイエス様がエルサレムに入場されたことを礼拝の中で覚える日曜日。来週の日曜日がそれに当たります)から始まる受難週は、イエス様の地上での働きの最後の苦難に思いを馳せます。洗足木曜日(弟子達との最後の晩餐、弟子達の足を洗い、互いを愛することを弟子達に説いた日)、聖金曜日と言われる受難日(イエス様の十字架上の処刑)、聖土曜日(地上政府の権力に神様の独り子であるイエス様が打ち砕かれ、人々がショックと嘆きに喪している日))を通り、イエス様はこの世の罪のために十字架の上で処刑されます。無実のイエス様がこのように命を暴力的な形で奪われることは、 現代における抑圧の被害者であるウクライナ難民コミュニティやLGBTQIA+コミュニティ、あるいはアメリカの黒人や褐色人種のコミュニティの友人や家族にとって個人的に思えることに違いありません。
闇は、現在という今の世の中においても満ち溢れているのです。
そんな闇だらけの世界に生かされている私たち人間にとって、闇の中に溺れることはいとも簡単なことです。周りの人々が抱える苦しみや傷みは日常茶飯事。当たり前のことです。苦しみ、抑圧、権力の悪用の蔓延がデフォルトの状態であり、希望や楽観主義は現実という冷ややかな光の中で泡のように消え去る日々。ニュースに耳を傾ければ、富む者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくなっている今の世の中。世界の権力者たちは抑圧と暴力を行使し、勝利に次ぐ勝利を主張する一方で、辛い現実を目の当たりにしている人々は皆、権力者により塵のように扱われる。戦争は激化し、罪のない人々が殺され、生き残った人々は難民となり、行く先々で差別、または無関心の波に直面する。寡婦や孤児は社会から締めだされ、社会から疎外された人々はさらに追いつめられる。
そのことを思うとき、今日の聖書箇所の一つ、イザヤ書にある預言者イザヤの言葉は苦しんでいる民の心をさらに突き刺すことでしょう。
16主はこう言われる。海の中に道を通し恐るべき水の中に通路を開かれた方17戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し彼らを倒して再び立つことを許さず灯心のように消え去らせた方。18初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。19見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。20野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせわたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。21わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
苦難に満ち溢れるこの時代に、自分たちが虐げられているというこの時代に、どうして私たちは神様をイザヤが言うように、この世の中を見ることができるのでしょう?私たち皆が溺れているのに、どうして神様が「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれ」ると、預言者イザヤのように宣言できるでしょう?だからせめて礼拝の中だけでは、私たちを取り囲む現実の恐怖から目を背けたいと思うのが当たり前ではないのか?世の中の罪の深さが様々な形で露呈されている。そこには罪悪感と恥がまみれる。ただキリストの平和があるだけ。他には何もない。
しかし、死・闇に打ち勝つほどの強い愛は、つまり愛である神様を知るには、死を経験しなければ私たち人間にはわからないのです。人間の罪がもたらすこの世のあらゆる苦しみや痛みからの救いは、その痛みが現実のものであり、人間の罪の結果妥当なものであるからこそ私たちをひどく苦しまさ、痛みつけているということを認めなければ、私たちは神様がイエス様をこの世に送らなければいけなかったことを理解することはできません。
私たちの神様は、荒野に水をもたらし、鎖を断ち切り、裂け目を修復し、廃墟を再建し、住むべき道を回復される神様なのです。そんな神様を本当に知りたいのであれば、暗闇の中にあって愛を示し続ける神様の前に立ちはだかる、人間の謀反、反逆の姿をまず見つめなければなりません。
このような困難な時代に、イザヤの言葉を読むことは簡単なことではありません。しかし、イザヤは知っていました。神様の言葉である「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」を宣言したとき、イザヤは、多くの人々を犠牲することでたった一部の人々が繁栄する世界が終わりに近づいていること、人命が軽視され、簡単に奪われ、株主利益の損失が人命の損失より重視される世界。強制送還される移民・難民、恐怖の中で息を潜め泣いているトランスジェンダー、差別に苦しむ女性、黒人、褐色人種の人々。これらの人々が犠牲になる世界は、もう昔のことなのだ。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」
それは神様の変わらぬ、非合理的な、完全なる愛。この愛が闇に勝利をもたらす。神様の愛を示さないすべてのものが塵と化し、投げ捨てられる。しかし灰にまみれた中に神様の愛はなおも残り、とどまる。これが神様が言われる新しいことなのです。
マリアは、イエス様を通して現された神様の完全なる愛に対し、寛大になることを選びました。というより、完全なものを前にしてそうすることしかできなかったのです。純粋で非常に高価なナルドの香油を買ってそれを贅沢に使うことよりも、もっと実用的なことができるはずということは問題ではなかったのです。後にイエス様を裏切るユダはこのマリアの非現実的な行動に理論と理性を持って反対します。しかし、マリアが買った高価な香油にかかったお金でさえ、彼女を取り巻く社会の貧困と苦しみを解決することはできなかったでしょう。問題を解決することが大切なことではなかったからです。イエス様にとって、マリアの行為が最初から最後まで神様の愛に対する反応であったことをイエス様は知っておられました。
イエス様を通して示された神様の愛は、人間の愛とは違いました。神様の愛は、非合理的で、非論理的で、衝動的のようにさえ見えたかもしれません。しかしそれは感情としての愛ではなく、世の中の流れに流される愛ではなく、意図的な力強い愛でした。明日がどうなるかわからない。それでも神様が自分を愛してくださったように、自分も神様を愛す。マリアはそのことを選んだのです。
マリアは恐怖に屈することなく、死の影に屈することもありませんでした。彼女は愛を選んだのです。飢えた人がハンバーガーを求めるように。喉が渇いて死にそうな人が水を求めるように。7~10分しか離れていない恋人に会いに行くように、神様との出会いを、神様との愛のやり取りを求めたのです。
愛。神様の御姿に基づく非合理的で、非論理的で、無制限の愛。
愛すべきでない理由を、あえて故意に無視し、ただそこにある涼しい癒しの水のオアシスに飛び込む。
だから私たちは、この世にある暗闇、私たち人間の中にある暗闇に目を向けなければいけないのです。たとえ居心地が悪くても、罪について向き合わなければいけないのです。自分たちの中にある、自分たちが一部として存在する世の中にある罪を告白し、自分の欠点に立ち向かい、罪がもたらす世界の痛みや傷について礼拝で神様の前に注ぎ出さなければいけません。罪の告白など必要ないと言われたとしても。私たちは、世界の苦しみを、自分たちのコミュニティに存在している苦しみを、まばたきもせずに見つめ、隠さず、その存在を認めなければいけません。なぜならキリストの愛はそのために私たちに与えられたからです。
イエス様の愛は私たちの苦しみを打ち負かす愛だからです。
イエス様が私たちに抱いておられる愛も、私たちがイエス様に抱いている愛も、いってしまえば、反抗的な愛なのです。それは影に隠れる愛ではなく、暗闇に向かって、暗闇にあえて対抗する、反逆する愛であり、私たちを追い出そうとする暗闇のパワーを敢えて阻止する愛なのです。苦しみに圧倒されそうな時、人生の墓場にいるように思える時、人生の底辺にいる最も暗く、辛いときでさえ、クリスチャンとして生きる最も根本的な真理と指針がそこにあります。
愛すること。
理にかなっていないとしても愛する。ありえないほど愛する。最後まで。混乱を物ともせず強い思いで。
イエス様がそうしてくださったように、相手はそうでなかったとしても、愛を選ぼうではありませんか。
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