「私が差し出すもの」
- Rev. Don Van Antwerpen
- Jul 20
- 7 min read
Unfinished Community ヴァンアントワペン ドナルド牧師 ルカによる福音書10:38-42

今日の聖書箇所について長々と話すつもりはありません。ストレス社会に生きる多くの方 が心に重荷を感じているでしょうし、こんな暑い日に、説教が長くて重々しいものだった ら。。。正直、「この人、いつまで話し続けるの??」だけだったら、憂鬱になってしま いますよね? ですので、いつものようなたとえ話や、聖書が書かれた言語の解説や聖書箇所が書かれた 時代の背景への深掘りは省き、ストレートに要点に入りたいと思います。 今日の聖書箇所のお話はよく知られているお話ですね。「マルタが仕込み仕事ばかりして いて、イエス様に叱られた」。多くの人はこのお話をそのように捉えているでしょう。 イエス様が家にやってくるのを迎え入れた姉妹、マルタとマリア。マルタは料理、掃除、 配膳など「おもてなし」の役目を担い、マリアはイエス様の足元でじっと話を聞いていま す。時間が進むにつれて、マリアは集中して話を聞き続ける一方で、マルタのどんどん怒 りを募らせていきます。 そして、ついにマルタは堪忍袋の緒が切れてこう言います。「主よ、わたしの姉妹はわた しだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるよう におっしゃってください。」(ルカによる福音書10:38-42) このマルタの言葉を聞くと、私たちは「裁き」を始めがちです。イエス様がマルタに対し 「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と言った時、それがマルタは「多 くの雑事」(料理や掃除や奉仕など)のことを指しているに違いないと。 でも、よく考えてみてください。 マルタがしていた雑事はどれも不要な行為ではありません。「イエス様の話を聞くのはも ちろん大切ですが、人をもてなすのも大切」そうです。家を整え、皿を洗い、皆が座れる 場所を用意し、皆がイエス様の言葉を聞き、それぞれの帰り道が安全であるように配慮す る。そうです、マルタがしていたことは全て大事なことなのです。 彼女は重要な役割を果たしていたのです。 私をよく知っている人は、私がかなりマルタ寄りの性格だということをご存じでしょう。 そのため、私はこの聖書箇所に対して、若い頃から疑問を抱いていました。なぜならマル タの忠実な奉仕を、イエスさまがただ軽んじているように思えたからです。私は心の中で 思っていました。「どうしてマルタの働きを認めずに、マリアだけ持ち上げるのだろう」 と。 しかしその思いは、子どもを持ち、子育てに追われる中で、変えられていきました。毎日 子どもたちの果てしないケンカの仲裁に追われることで、この聖書箇所をようやく理解で きたように思ったのです。 それは「違い」を伝えるのは難しいということ。 違う人達が調和して生きるのに、全く同じ考え方や行動、信念を持つ必要はない。なぜな ら互いを補完し合うことでこそ、調和が生まれる。 この聖書箇所は、そのことを教えてくれたように思えてきたのです。 私たちは皆、それぞれ異なるスキル、考え方、世界観、神観を持っていて、それが共に働 くことでより良い世界を作れる。そのはずなのです。 でも私たちは、悲しいかな、自分の基準で他者を測り、自分と同じなら正しい、違ってい たら間違っていると裁きがちです。これは大きな誤りです。 この物語でマルタが「思い悩んでいた」というのは、やるべき奉仕のことではありませ ん。マルタが「心を乱した」のは、「マリアと比べてどうなのか」ということだったので す。 マルタは心の中でずっとマリアが「妹らしく」ふるまうことを期待していました。キッチ ンで料理し、皿を洗い、グラスを飲み物を注ぎ、感謝の気持ちを行動で示す存在としてそ の日働くことを期待していたのです。 でも、マリアはそのように神様に造られたのではありませんでした。 そしてマルタの中で、マリアはそうあるべきという思い込みが大きくなりすぎた時、マル タは本当のマリアに目を向けることができなくなっていたのです。 ついにマルタの堪忍袋の緒が切れたとき、彼女はタオルを置き、皿を脇に置き、マリアに 対して怒りをぶつけました。そしてマリアにと恥かかせる形で、彼女をイエス様の前に連 れてきます。 その時、マリアはどんな気持ちだったでしょうか。家の女として働くべきだと期待されて いる中で、マリアはただ座ってイエス様の話を聞いていた。誰も気にしていなかったよう ですが、しかしマルタが公にそれを指摘したことで、周りの人は思い始めたかもしれませ ん。 「ああ、そうだ。なぜマリアはここで座っているんだ?本来ならマルタを手伝うはずじゃ ないのか?」 もしマルタがマリアを姉妹として本当に愛していたなら、なぜあんな振る舞いをしたので しょう。なぜ彼女に堂々と恥をかかせた上に、イエス様まで巻き込んだのでしょう? マリアは、彼女自身が一番自分らしくいれる場所、つまりイエス様のそばにいました。自 分がその時その場所でイエス様に呼ばれていることを感じ、そのことができるように最善 を尽くしていたのです。マリアは、マルタがどれほど傷ついていたかにも気づいていな かったでしょう。なぜなら、マルタの怒りの矛先は偽りのマリアに向いていたからです。 マルタの頭の中にだけあるマリアの偽りの影だったのです。 だからこそ、イエス様のマルタに対する叱責が意味を持ちます。彼女は本当にやるべきこ と、自分らしくあることを見失っていたからです。マリアに対する間違った期待と怒りの ために、自分を見失っていたのです。 イエス様は自分らしくいるマリアを称え、マルタをたしなめました。それはマルタの怒り が正当に思えたにしても、マリアをリアルな傷を負わせたことに変わりはないからです。 今日の聖書箇所の一番難しいところは、誰も自分が悪くないと思えてしまう点です。マル タのマリアに対する不満は彼女自身、そして周囲にいた多くの人にとって当然に思えるも ので、イエス様が立ち止まり、「マルタ、お前が本当にしていること」を指摘するまでは 彼女は自分自身が本当は何をしているかに気づかなかったのです。 私は、この夜マルタとマリアには話し合いがたくさんあったのではないかと想像します。 この日の出来事が終わった後も、マルタとマリアが姉妹関係を良好に続けるためには、悔 い改めが必要だったはずです。マルタはマリアに、神様が造られた彼女自身をそのまま愛 せなかったこと、自分の期待という重荷を勝手に背負わせてしまったことを謝罪したと思 うのです。 私たちは皆、ときにマルタです。私もまさにそうです。愛する人が、自分の期待に応えて くれないときに、なぜそうしてくれないのかと感じることがあります。それと同時に私は マリアにもなるのです。自分らしく生きて、自分があるべき人になろうとする中で、気づ かぬうちに周囲の人を傷つけてしまうのです。 教会コミュニティという共同体における大きな課題は、「怒りや自己中心に心を奪われな いこと」だと思います。期待を「憎しみ」という偶像にしないこと。そして、自分にとっ てそれがしたいことでも、相手をよく見て、相手を傷つけずに生きられるよう訓練するこ とではないでしょうか? 私たち一人一人が差し出せるものは、自分という存在だけだと思います。神様に、神様の 働きに招かれた者として、自分の壊れやすさや未熟さ、愚かさを認めながらもそのままの 自分を差し出す。自分が誰かを傷つけるつもりではないけれど、その可能性があるという ことも含めて。 私たちが神様に対して、お互いに対して、本当に差し出せるものとは、互いに神が造られ た自分自身であるということに尽きると思います。欠けた部分がありながらも、互いの中 にある善を認め、それぞれが造られた本当の姿を見ようとするなら、私たちの関係は持続 し、成長し、いつか花開くのです。 そして、違いゆえにではなく、違いがあるからこそ、共に生き、愛し合い、平和にあれる のだと私は信じています。 アーメン
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