「あなたはどうしますか?」
- Rev. Don Van Antwerpen
- May 11
- 8 min read
ヴァンアントワペン 亜希子 牧師

祈りましょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。アーメン。
今日の聖書の箇所は、とても有名なものです。おそらく、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」という言葉を聞いたとき、すぐにこの詩篇を思い浮かべた方も多いでしょう。
でも、どうしてこの詩篇をよく知っているのでしょうか?どこで、いつ聞いたことがあるでしょうか?例えば詩篇23篇は、葬式でよく読まれます。ちょうど2週間前に、私たちの教会の大切な会員、小西良子姉妹が亡くなり、良子姉妹の告別式の礼拝で、田渕先生が詩篇23篇を読んでくださいました。私が告別式でこの詩篇を聞いたのは初めてではありません。
詩篇23篇が告別式でよく使われる理由のひとつに、4節にある「Darkest Valley」「陰の谷」という部分が関係しています。この「陰の谷」という言葉が、まさに死の影を連想させるからです。
日本語の聖書では、この箇所に「死」という言葉が使われています。私たちの教会で使っている新共同訳では、4節の部分は「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。」という風になっています。そのため、多くの人がこの詩篇の言葉を、死にゆく人を見守る祈りとして、死にゆく本人も、そして送り出す家族もよく聞いているのだと思います。
詩篇23篇は私たち信仰を持つものたちにとって、死後の世界、つまり天国・神の御国に対する慰めや確信を与えてくれます。
しかし私は神学校で学んでいるうちに、詩篇、特に23章についてもっと広い視点を持つようになりました。この詩の文脈を理解し、詩篇を書いたダビデ王についてさらに学びました。詩篇はダビデが自分の信仰の旅路を詠んだ詩で、詩篇を通してダビデの生涯を学ぶことができました。羊飼いの少年からイスラエルの王へと神様により選ばれた彼の波乱万丈な人生を知ることができました。
そこで気づきました。詩篇23篇は、ただ死を迎える準備をしている人のために書かれたものだけではないということを。詩篇23編は、生きるために、生き残るために戦っている人のための詩でもあるということを。
もっと言ってしまえば、詩篇23篇は、信仰を持って生きることを選んだ人が書いた詩だと思うのです。
生きることを選ぶ—それは単に息をしているという意味だけではありません。それは真に生きる、つまり神様への信頼と信仰をもって生きるということです。ダビデは、まさにそのように生きることを選びました。危険や恐れの中でも、神様を信じて生きることを選んだのです。
詩篇23篇をもう一度共に読んでみましょう。
1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう。
ダビデがこの詩を詠んだ時、彼はまだ王ではありませんでした。神様はダビデを選びましたが、サウル王がまだその座についていました。サウルはダビデに嫉妬し、自分の地位が追われることに危険を感じてダビデを殺すことを決めました。
命の危険を悟った、ダビデは逃走します。荒野に隠れ、洞窟を渡り歩きます。ダビデは恐れおののき、不安で孤独でした。神様が与えた約束(王様になる)と、実際に彼が直面している現実とのギャップに苦しんでいたのです。
荒野での生活は非常に厳しく、食べ物も水も不足していました。そこには青草の原の緑の牧場も、憩いの水のほとりもありませんでした。そこは砂漠だったのです。ダビデは、ただ生き延びるために曲がりくねった険しい崖だらけの道をさまよい続けていました。
ここで、あなたがダビデだったらと想像してみてください。
シリアの砂漠で命を狙われながら逃げる中東の少年になりきるのは難しいかもしれません。でも、少し想像してみてください。目を閉じて。
あなたには何もありません。あなたは逃げている途中で、どこに行けば安全なのかもわからず、どこに食べ物や水があるのかもわかりません。どこなら安全に落ち着いて休めるのかもわかりません。恐怖と不安と絶望があなたを包みます。
でも夜が来て、ようやく休むことができたとき、あなたはふと考えるかもしれません。神様が自分に与えた計画はどうなったのか?王になると選ばれたはいいけれど、こんな状況のこんな私が王になるはずがない。私は一人ぼっちで、貧しく、飢え乾き、ホームレスの惨めなただの男なのだから。それがダビデの現実でした。
でも、ダビデは自分について、自分の人生について、そのようにに思っていたのでしょうか?
詩篇23篇を読む限りはそのようではないように思います。
なぜなら、ダビデは信仰を持っていたからです。神様を信じていたからです。
だからこそ、彼はこの詩を書いたのです。
1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。4死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。5わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう。
ダビデは、主がいつも彼の羊飼いであると信じていました。
ダビデは、自身が神様への信仰を持ち続けるなら、何も欠けることがないと信じていました。
ダビデは、神様が自分の傷ついて、疲れた魂を癒してくださると信じていました。
ダビデは、道が曲がって見えても、神様が自分を正しい道に導いてくださると信じていました。
ダビデは、悪が勝つことはないと信じていました。悪が根絶するからではなく、悪がはびこったとしても神様がいつも共にいてくださると信じたからです。
ダビデは、サウルを殺す必要はないと信じていました。神様が自分の敵を取り計らってくださると信じていたからです。
ダビデは、敵や、その脅威ではなく、神様の恵みと慈しみが自分を追い続けると信じていました。
ダビデは、どこにいても—王宮でも洞窟でも—神の家に、主の家に自分が住んでいることを知っていました。
さて、話は変わり、少し遅くなりましたが、今日は母の日です!世の中のお母さんのみなさん、おめでとうございます!
聖書が書かれた時代は、男性が言語を支配していたため、神様は「彼」と呼ばれることが多かったですが、それは神様が男性であるという意味ではありません。それはその時代の慣習にすぎないからです。
実際、聖書には神様が女性的なイメージで描かれている箇所もあります。時には神様は「彼女」と呼ばれることもあります。
つまり、神様は私たちの両親、父であり、母であり、私たちの親であるということです。
ですから、そのように考える時、母の日は子供を持つ女性だけのためのものではないと私は思います。
母の日は、男性にも、子供がいない女性にも、子供を持たないことを選んだ方にも、子供を持ちたかったけど持てなかった方にも、特定の性別、ジェンダーアイデンティティーを持たない人々全てに、母という神様から与えられた日と私は考えます。
母の日は、私たち全員のための日です。それは私たちの母なる神様が私たち全員にくださった日だからです。
そんな母の日に、神様はあなた方一人一人に贈り物を用意しています。
それは他の誰にも与えることのできない贈り物です。
それは一体なんでしょうか?
それは詩篇23篇に書かれている信仰をもった生き方です。
それは
神様があなたの羊飼いとなることを、 神様があなたの必要を満たしてくださることを 神様があなたを守り、導いてくださることを 神様があなたを愛するように、他の人をも愛しているので、自分もそうするようにできることを
毎日、恵みと慈しみがあなたを追っていくことを信じる生き方です。
神様を信じる時にそのような生き方が可能になることを信じる生き方です。
それが神様が私たち一人一人に望んでおられる生き方です。
そのように生きることは、あなたの力ではできません。神様がそうさせてくださるのです。神様を信じるという贈り物を受け取る時に。
あなたはその贈り物を得るために努力する必要はありません。
あなたはその贈り物に値することを証明する必要もありません。
神様が信仰を、そしてそれにふさわしい生き方を与えてくださいます。なぜなら神様はあなたを愛しておられるからです。
その愛に、その贈り物のオファーにあなたはどう応答しますか?
両手を広げて「素晴らしい贈り物をありがとう」と言いますか? 「あなたが私の神です。あなたを信頼します。」と言いますか? 神様をあなたの人生に迎え入れ、主の家をあなたの住まいとしますか?
祈りましょう。
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