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Rev. Don Van Antwerpen

「一体次は何?」

ヴァンアントワペン ドナルド牧師, Unfinished Community 2024年4月8日, 詩篇133 & 使徒言行録4:32-35


私は幼い頃から教会に通っていたのですが、その頃からよく耳にしてきた、とあるフレーズがあります。私がそのフレーズを初めて耳にしたのは、教会総会や、教会で行われる投票、そして教会というところがどのように機能しているのかを理解しようとしていた頃だったと記憶しています。初めてこのフレーズを聞いたとき、私はその意味をよく理解することができませんでした。


そのフレーズとは”Nobody likes to see how the sausage is made." 「誰もソーセージがどのように作られるかを見たがらない。」


英語圏では、このフレーズは様々な場面で使われ、その歴史は1800年代後半まで遡ります。ソーセージはとてもおいしい食べ物ですよね。しかし、その美味しいソーセージがどうやって自分の皿に盛られたかを考え始めるとどうでしょう?


そのソーセージを同じように美味しく楽しむことができるでしょうか?


もちろん今日では、このフレーズは文字どおりというよりは比喩的に使われることが多く、政治のシーンから、そして.教会生活まで、さまざまな状況で用いられています。

”Nobody likes to see how the sausage is made." 「誰もソーセージがどのように作られるかを見たがらない。」


このフレーズの意味はこうです。物事がどのような経過を経て、今の状態になったかを考えるのではなく、今の完成されたその物事自身を楽しむ方が良い。つまり結果を楽しむべきであって、過程は気にしない方がいいのだ。


もちろん、その方が難しいことを考えすぎなくて良いし、それによるストレスを感じることもないでしょう。しかしここで忘れてならないことは、私たち人間は社会や教会に属し、そこで共生し、共同体の中で信仰を深めようとしているということです。社会、そして教会のコミュニティに属するということは、ただ座っておいしいソーセージをほおばるのではなく、私たち一人一人がソーセージ作りのプロセスに参加し、全体がどのように機能しているかを理解し、よりよく機能するようにお互いが協力することを意味します。そうしなければ物事は進まないのです。


教会運営についても同じことが言えます。教会は信仰をベースにした共同体として集まり、そこに集まる人々が共に成長し、共に向上するために協力し、目的を達成しようとします。しかし理想はさておき、物事はいつも理想通りにいくとは限りません。そこでみなさんと一緒に考えてみたいと思います。私たちは教会という共同体としてどのように機能しているでしょうか?私たちの教会内の組織や構図、システムについて理解している人はどれくらいいるでしょうか?


つまりソーセージが実際にどのように作られているのか、本当に理解している人はどれだけいるのでしょうか?


教会という組織全体を、ただ礼拝の関してのことだけとしてしまうのは簡単なことです。つまり、教会に関するあらゆるシステム、あらゆる構造、あらゆるルール(文書で記されているものや、そうではないもの全て)は、礼拝が洗練され完璧なものになるために存在する。実際、そのように機能している教会では、礼拝中に一瞬でも課せられた基準を逸脱したり、洗練されていないもの、不完全なもの、100%でないものを目撃するとそれに関わる人々を解雇したり、追放したりすることがあります。残念ながら私はそのような目にあった人を見てきましたし、私もそのような経験をしたことがあります。


何年も前、牧師になる前のことです。私は教会で楽器を弾く仕事をしていました。その日は礼拝中オーボエのソロを弾くことになっていました。しかしアクシデントが起こります。礼拝中、私が最初の音をオーボエで奏でようとした時、私が最初の音を吹き始めると同時に、リードが真っ二つに割れてしまいました。それは予測不能の事態でした。リードが割れてしまった時点で、私には2つの選択肢しか残されていませんでした。演奏全体を中断し、ケースから別のリードを取り出し再挑戦するか、爆竹の上に不運にも座り込んでしまったアヒルのように、金切り声の音しか出ない楽器で演奏を続けるのか?


どちらの選択肢も、エラーが発生した事実を隠すことはできません。礼拝の流れは、その瞬間、断たれてしまったのです。取り返しのつかないほどに。ショーはもはや続けられない。神様の荘厳なる臨在に目が向けられるのではなく、突然、私たちは人間が犯す過ちに目を向けざるおえなくなってしまったのです。人間の過ちや壊れやすさを礼拝中に目の当たりにした教会は、ソーセージ作りの全容を見てしまいました。見たくなかったのにです。そしてその結果私はその日を最後に教会から解雇されました。


欠点だらけで、不完全な人たちが、過ちをおかしながらもそれでも正直に働き続ける。それを見たくなかったとしてもそれがクリスチャンとしての歩みなのではないかと私は思います。


だからこそ、イースター直後の日曜日は、私たちが共同体として共に歩む上でとても重要だと私は思います。私たちはイエス様の復活の日曜日を先週お祝いしたばかりです。大きなお皿に盛られたソーセージに夢中になっていました。私たちの救世主、イエス・キリストは残酷で非人道的な方法で死刑に処された。しかし、イエス・キリストは甦られた! イエス・キリスト、私たち一人一人が永遠の命に預かるため、神様の人間に対する愛を示すため死から復活された。イースターは絶対に祝うに値する日であり、私たち全員が驚きと喜びのうちにイエスに目を向ける瞬間なのです!


でも今日はもうイースターの日曜日ではありません。今日の聖書箇所の詩篇133篇にあるように兄弟姉妹が共に座るという恵み、喜びをイースターのお祝いを通して経験した今、私たちはこれからどうしたらよいのでしょうか?私たちが進むべき次の道とはどのようなものなのでしょうか?


私は、今日のもう一つの聖書箇所の使徒言行録に答えのヒントがあると思っています。使徒言行録といえば、パウロのローマへの旅やステパノの殉教前の劇的な説教などがよく知られていますが、使徒言行録の冒頭部分では、使徒たち(イエス様の復活を目撃した者たち)や使徒たちと共にいたすべての人々が、イエス様の復活後にどのように時を過ごしたかについて読むことができます。これはあまり知られていないことかもしれませんが、使徒言行録は独立したテキストではなく、2巻セットの第2巻であり、第1巻はルカによる福音書になります。つまり、使徒言行録は、ルカによる福音書の続編なのです。


ルカによる福音書最終章から使徒言行録の初めにかけては、イエス様が復活され、天に昇られたことが記されています。そしてそのあとに読む話は教会の組織化の話です。イエス様が天に昇られた後、使徒たちが最初にしたことそれは、一つになり集まり、信徒集会を開くことでした。


使徒言行録1:12-26にはこうあります。イエス様を捕らえた者たちの手引きをしたユダについて使徒の一人のペテロは、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。 」(1:17)と言及します。そしてユダの罪、ユダの任務について信徒間で共有した後、使徒の任務を引き継ぐものについての投票をすることになります。組織作りの立て直しです。


これがソーセージの作り方でないとしたら、何なのでしょうか!そして今日の聖書箇所である使徒言行録4章を読むと、使徒を通しての聖霊の働きを支えるために構築された組織化がさらに明らかにされます。


私たちは、初代教会が聖霊の偉大な働きについて、超自然発生的な奇跡と捉えがちですが、今日の聖書箇所は必ずしもそれだけではないことを示しています。聖霊の働きは使徒による組織化により支えられたのです。使徒たちは、財産管理のためのシステムを構築し、地域社会全体に資産と資源を平等に分配することにします。使徒たちは組織化、システム化という地味な仕事に時間を費やしていたのです。神様の教えに基づいた恵み、憐れみ、優しさを分かち合うために、集められたお金を必要に応じておのおのに分配するために、そうすることによって一人も貧しい人がいないように、構造を整え、組織化したのです。


その組織化こそ、今日の説教題「一体次は何?」という疑問に対する答えだと私は思います。イエス様の復活を祝った後の数週間、数カ月、数年後の間に、私たちが共同体として何をすることが期待されているのだろうかと考える時に私たちが見出すべき答え、それはこうではないでしょうか?


共同体としての教会は組織化という日々の退屈な作業によって前進していく。


教会の前進、進歩は大きな劇的な瞬間で測られるものではなく、絶え間ない恍惚の涙で示されるものでもなく、私たち個人としての生活がどんどん良くなることが指標なのでもありません。教会の進歩は、いつも幸せな人々の集まりによって作られるものでもありません。クリスマスとイースターにだけ顔を出して教会の財政状況を確認するような一握りの裕福な寄付者によって作られるものでもなければ、組織や構造の制約に煩わされずに、ただ自分が思うやり方でイエス様に従いたいと願う人々によって作られたものでもありません。


キリスト教、そして教会の進歩は、共同体に属す人々の日々の平凡な仕事によって可能となリます。だから、私たちは墓は空っぽで、そこにイエス様がいないことに気づき、「だったら次は何だろう」と自問するとき、その答えは「ペンテコステ」ではありません。その答えは、「リバイバル」でもなければ、「フルバンドが揃う欠点のない礼拝」でもありません。イースターの感動的な高揚感をペンテコステまで引き伸ばし、再びアドベント(待降節)に突入するまで、もう一度すべてを巻き戻せないかと私たちは試行錯誤したくなるかもしれません。しかし使徒たちが教えてくれる教訓はこうです。教会が前進するというのは、洗練され完成された礼拝を通して、絶え間なく霊的な恍惚感や感動的な高揚感を味わうことを意味するのではありません。教会の前進とは、信仰を持つ人々による日々の地味な、組織化のような仕事であり、そうでない時は部屋に一緒に集まり、計画について話し合い、機能していない部分をどのように修復するかを考え、周りに認められたり、報酬をもらうことなしにやってくる共同体の大変な仕事に向き合うことです。


イースターの力強さと華やかさを背面鏡に映して、イースター・シーズン第2主日の今、私たちは袖をまくり、劇的な誘惑から目を背け、地味で平凡な教会での働きに加わろうではありませんか。


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