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Rev. Don Van Antwerpen

「不当な賃金」

ヴァンアントワペン ドナルド牧師

Unfinished Community

2024年6月2日

申命記5:12-15 &マルコによる福音書2:23-3:6


牧師が説教壇に立ち、律法について語り始めるとしたら、皆さんはどのように反応するでしょう?私なら顔が強張り、一気に緊張が押し寄せますが、皆さんはいかがですか?キリスト教の歴史を通じて、「律法」ほど残酷、残忍、痛みを思い起こさせる言葉はないのではないでしょうか?アメリカ的に言えば、「法と秩序」でしょうか?


私たちの多くにとって、律法・法律とは権威ある者からの偉大な命令であり、私たちを人生という狭い道に厳格に、そして確実に縛り付けるものであり、私たちが集団の一員となるために、自分たちの欲求、ニーズ、欲望、さらには私たち自身のアイデンティティの一部と、私たち自身のすべてを放棄させるものだと思いがちです。法律は私たちの多くにとって、偉大だからこそ融通の利かないもののように思えるわけです。


通常の「法律」、つまり政府が公布・施行する法律に関しては、私たちは法律を誰もが守らねばならないルールと理解しています。法律を破れば、それは自分が社会を顧みない人間であることを示すことになります。法律を破れば、その結果として集団の外、社会の外に置かれます。私たちは法を犯す者を「他者」、つまり目先の欲求やつかの間の欲望を満たすために、社会における自分の居場所を交換した人々とみなすわけです。このような人々は「犯罪者」であり、私たちのような普通の、善良で、まともで、法律を守る市民とは別の存在と区切るわけです。


この「法律」の概念を宗教法、つまり「律法」に広げるとどうでしょう?この鉄のように硬く融通の利かない法律に対し、さらに道徳的な側面が加わることになります。宗教的な法律を破ることは、単に社会的な違反行為を犯すというだけでなく、個人的に深い過ちを犯したということを意味します。私たちは、宗教法に違反する人間は道徳的に堕落し、精神的に貧しく、倫理的に破綻した人間だと考えるわけです。


そして、この2つの考えを組み合わせて考えるとできるもの、それは私たち人間が心の奥底で密かに切望しているもの、つまり、善人と悪人の間の明確な境界線が出来上がるのです。ほんの少しのニュアンスや文脈を考慮することなく、ある特定の人物を即座に最悪な人間として識別し、隔離するために使用できる、シンプルで白黒はっきりした基準。


私たち人間は、法を破った人間を最低の人間だと考えるわけです。選挙の時期になると、アメリカであれ日本であれ、テレビのコマーシャルを見るだけで、政治家が次から次へと、評論家が次から次へと、犯罪に厳しく、犯罪者に厳しくする必要性があることを大胆かつ長々と語っているのを目にします。アメリカの場合はこのような議論をよく耳にします。自分の身の回りにいつ犯罪者が現れて、自分の愛する人を脅かすかわからないから、常に重武装が必要という主張。犯罪者、そして神と人類の掟に違反する者は、無視し、追い出し、人間性を奪わなければならない。このようにして犯罪者を、修復不可能なほど壊れた人間、救いようのない者と考えるのはとても簡単なことです。それらの人々を人ではなく、物とみなすこともとても簡単です。私たち人間はごく自然にそのようなことをするのです。


しかしキリスト教の教えはこうです。すべての人の内に神様の輝き、神様の御姿の反映、触れることのできない美しいイマゴ・デイが宿っている。そのことを信じ流のであれば、誰かを根本的に間違っている、邪悪だ、修復できないほど壊れていると見なすことができるでしょうか?神様に愛された一人の人間を目の当たりにして、「明らかにこの人の行いは、全く善良ではなく、全く神様に愛されていない 」などと考えることができるでしょうか?


もし私たちが法律について考え始めるだけでなく、法律が適用される人々について本当に考え始めると、物事はあっという間に白黒の問題ではなくなってしまいます。偶発的な原因のものを差し引けば、誰かが法を犯すのは、その人が生きている社会の規則や法律の制約のもとでは満たされない欲求を自分の中に持っている時です。その欲求は、根深い心理的な問題から生まれることもあれば(反省しない精神病の殺人犯によく見られる)、単に環境から生まれることもあり、社会的条件や圧力、貧困の結果からの行為かもしれません。


フランスの有名な作家、ヴィクトル・ユーゴーは、そのことを理解していました。1862年に出版された彼の小説『レ・ミゼラブル』の主人公は、飢えた子供に食べさせるためにパンを盗んだ男でした。主人公であるパンを盗んだ男の行為は、私たちが公正で慈悲深い社会で高揚させるべき貧しい者たちへの愛、慈悲、憐れみから生まれた行為でしたが、彼は紛れもなく犯罪者とされました。窃盗は法律違反なのだから。しかし、この主人公ジャン・バルジャンは貧しく、飢えに苦しみ、貧困と絶望の中で生きる農民でした。彼自身には何の手段もなく、栽培する土地もなく、自分と家族を養うための正当な賃金を得られる仕事もありませんでした。彼が貧しかったのは、貧しいままだったのは、社会が貧しい人々を必要としていたからです。


罪の報酬が死であるなら、チャンスも機会も希望もなく、世代を超えて貧困の家庭に、貧困の時代に、貧困の状況に生まれた彼のような人に対する報酬は何なのでしょう?親切、慈悲、公平・公正ではないでしょうか?


しかし私たちは、法律が貧困に苦しむ人々をそのように見ないことを知っています。『レ・ミゼラブル』の中で、若きバルジャンはこのように描かれています。彼は社会の目から見て、犯罪者となった。それは自暴自棄、犯罪行為を犯してまで、子供を養う必要性が、法律を守る義務よりも勝っていたからです。


確かに彼は犯罪者でした。しかし、彼は間違っていたのでしょうか?彼は間違ったことをしたのでしょうか?


助けが必要なとき、苦しみがあるとき、私たちの人間性、愛、慈悲、思いやりが危機に瀕しているとき、融通を利かせなければならないのは誰なのでしょうか?


法は何のためにあるのでしょう?法律が人間によって作られたものにしても、全ての権威を支配し、高座につかれておられる神様から託されたものにしても、法律には何の意味があるのでしょう?


このように考えると、法律というもの自体が残酷で気まぐれなものに思えてきます。愛に満ちた神様が人々に課すものとは正反対に思えませんか?


もう一度聞きます。法律とは何なのでしょう?なぜ法律があるのでしょう?


今日の聖書箇所の一つ、マルコによる福音書に書かれているイエス様の行動は、人間の思考における大きな欠陥のひとつ、つまり法の本質と目的に対する私たちの理解の不足について教えてくれるものだと私は思います。もし私たちが法律を、神様や社会に対する義務であり、違反すれば罰せられるような、決して変えることのできない境界線だと考えているとしたら、今日の聖書箇所で読むイエス様の行動は完全におかしいように思えます。イエス様と弟子達は歩き、弟子たちが麦畑の中の麦を摘み始めます。まるで窃盗という概念すら存在しないかのようにです。


ところで、古代中東の法律や慣習をよくご存じない方のために補足しておくと、当時は 「刈り入れ 」という慣習がありました。どういうことかというと、自分の土地で作物を育てている人々には、貧しい人、移民、難民、その他食べ物が必要な人々がその土地に来て、食物を刈り入れることができるように、畑の端になる作物を収穫せずに残しておくことが義務づけられていました。なんと素晴らしく、慈悲深い慣習でしょうか?


しかし、今日の聖書箇所には、イエス様、そして弟子たちが麦畑の端を注意深く見極め、そこから麦を摘み取っている様子は伺えません。つまりイエス様と弟子たちは、ストレートに掟を破っているのです。そしてそのような行為を極端な律法主義者として知られるファリサイ派の人々の前で行っているのです。ファリサイ派の人びは、イエス様がこのような違法行為に携わっているのを見て、イエス様がこのようにして麦を摘み取るには理由や許可があるに違いないと仮定して、最初は見守るわけです。


どのように見ても、イエス様は大胆に、あからさまに、疑いなく律法を破っています。さらに、イエス様は会堂に足を踏み入れ、神様と人々の目の前で、片手が萎えた人の手をまっすぐにされました。イエス様は疑いなく、両方の場面において意図的に律法を破ったのです。


私たちはここで、イエス様が自ら律法を破っているのを目の当たりにします。それと同時に、私たちはイエス様はしばし神様の定めた律法について、神様への正しい奉仕のために私たちを共同体として結びつける律法というこの規則について、愛情深く雄弁に語っていることも知っています。


この矛盾をどう理解したら良いのでしょう?


イエス様は犯罪者なのか、法を破った者なのか?それとも道徳の模範、私たちが子供の頃から聞かされてきた偉大で罪のない、法と秩序を重んじるお方なのか?どっちなのでしょう?


イエス様は人間である私たちが知らないこと、私たちがまだ理解していないことを知っておられるのです。


イエス様は、法律が実際には何のためにあるのかを知っておられます。


イエス様が破った律法とその理由について、少し一緒に考えてみましょう。


まず今日の聖書箇所で問題になっているのは、作物を盗んだことと、安息日を守るという規則の違反という2点です。窃盗の意味はもちろん皆さんわかりますよね。文字通りの意味です。ただ、イエス様は誰かの家から65インチのテレビとプレイステーション5を持って出て行ったわけではありませんよね。人々の食欲を満たすために、麦を摘み取ったわけです。


もう一つの安息日を守るという律法については、神様がこの律法を定めた意図と、当時の人々が 破れない命令としてこの「律法 」を受け止めていた、差について考えてみたいと思います。


まず申命記の冒頭の箇所をみてみましょう。:

12安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 13六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 14七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。


さて、申命記以来の時代、祭司、律法学者、ラビ、ファリサイ派の人々は、何世代にもわたって、「安息日を守り、これを聖別する 」ことについて、一生懸命に考えていました。イエス様の時代には、律法主義者たち(特にイエス様が対立し続けたシャマイ派といわれる宗派の人々)は、何世紀にもわたる慎重な釈義、学者による解釈と外挿、そして深い心からの祈りによって、安息日に働かないことが絶対的に正しいと考え、極めて詳細で綿密な一連の規則を作り上げていきました。そのような人々にとっては、収穫や癒しなどという「仕事」と解釈されかねない行為は、神様が人々のために定めた戒めに違反する行為だったのです。


だから、このファリサイ派の人々は、その長い伝統と入念な訓練に従って、この神様からの戒めの最も重要な部分は、どんな犠牲を払っても仕事を避けることだと理解するようになっていきました。しかし、イエス様ご自身、その神のご性質の一部であったため、神様の律法であれ、人間の律法であれ、すべての人を愛し、思いやるためのツールとして使われるのでなければ、律法にはまったく何の意味もないことを理解していました。出なければ律法は常に、私たちを束縛し隷属させる縄以上になる危険があることを理解していたのです。律法は、私たちを自らの罪深い性質の束縛から解放するためのツールとして意図されているのにです。


イエス様は律法の最初の部分、つまり「あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない」という部分に焦点を当てるのではなく、その後の部分、つまり神様の言わんとすることを理解する方法を私たちに教えてくれる部分に焦点を当てます。


「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」(申命記5:14)


私たちの共同体に属す人々が全員が休むことができないのに、私たちの誰かが休むことができるでしょうか?兄弟姉妹たちが自分の重荷に埋もれているのに、私たちの誰かが自分の重荷を捨てることができるでしょうか?他の人たちが絶望の中で息をついているのに、私たちの誰かが安堵のため息をついて休むことがどうしてできるのでしょうか?


もし私たちが律法の文言に細心の注意を払うあまり、同じ律法の下で必要を満たすことができない他の人々の苦しみから目を背けてしまうなら、私たちの安息日が他の人々、つまり私たちと同じように休む権利を持つ人々に、私たちが豊かな安楽を得るために働き、苦労し、苦しみ、死ぬことを求めるなら、その律法が破られたときに罪を犯しているのは働いている人々ではありません。

罪を犯しているのは私たちなのです。


私が子供の頃、日曜日に教会の人たちを家に招いたことを覚えています。皆さんがリビングルームでくつろいだり、庭でゲームをしたり、ただ楽しく過ごしていました。食べ物はたくさんあったし、みんなリラックスしてくつろいでいました。ある時、教会の長老が笑顔でこう言ったのを覚えています。「ああ、安息日とはこういうものだ 」と。


子供である私は、これこそが真の、聖書的な安息日なのだと、笑みを浮かべ、口いっぱいに食べ物を頬張りながらその長老が言ったことに対して納得すればよかったのでしょう。しかし私はキッチンを通り、リビングルームにいる父と教会の長老たちのところに行く時、懸命に働き、皿洗いのため、肘が水に浸かり、ゴシゴシと洗い物をしながら、まるで命懸けのように台所と格闘している母の姿を見たばかりでした。


そしてそれはまったく休息のようには見えませんでした。安息なんかとんでもありません。母は疲れ切っていたのです。


そして、私はこう思ったのを覚えています。ああ、これは安息日なんだろうけど、すべての人にとっての安息日ではないと。


もしこのシャンマイ派のファリサイ派の人々が、あの日イエス様が教えていたことに耳を傾けていたらどうなっていたか、想像してみてください。もし律法主義者たちが、開かれた目と愛と憐れみの心を持って、自分たちの権力と特権と権威を利用して律法に忠実であることを強制する代わりに、すべての人が休むことができるまで私たちは休むことができないと全世界に告げたなら、どんな素晴らしいことが可能になるでしょう?


もし律法主義者がイスラエルの民に、全世界の民に目を向け、安息日の律法を、神様が私たちに義務づけた責任ではなく、神様から与えられた互いへの責任として、声をひとつにして説いたとしたら?そもそも安息日があることの意義は、すべての人が少なくとも週に一度は休むことができるように、十分な食料を確保することできるように、すべての人が週一日の休息が当然の帰結となるように、必要を十分に満たすことができることであり、日曜日が巡ってくるころには、誰も笑顔で足と手を休め、神を賛美する以外に何もする必要がない。体が痛んだり、心が苦しんだりするすべての人が癒されるべきなのだ、と世界に伝えたらどうなったでしょう?


律法は私たちに与えられたツールであり、恵み、憐れみ、愛の方向を指し示す導きの星です。決して鉄のように硬く、融通の利かないものではありません。神様であれ人間であれ、ルールは決して融通の利かないものではありえません。なぜなら、世界はしばしば融通の利かないものだからです。


世界は人々からなるからです。美しく、すばらしく、キリストに愛された人々、私たちの唯一の真の聖なる神の御姿を持つ人々。


ルールは曲げたり曲げられたりするものなのです。私たちとともに動き、私たちとともに成長し、現実の複雑な変化に適応するためのツールなのです。私たちの人間に対する理解が成長し、変化するにつれて、法律も変化しなければなりません。というのも、私たちが法を不変のもの、確固としたものにしてしまうと、やがて私たちは合法的であることと、愛に満ちるということが同時にできないことに気づくからです。


パンを盗むか、少女を飢えさせるか?


キリストにあって、私たちはその答えを知っています。イエス様はこう言われるでしょう。世界を再構築しなさい。あなたの理解を開花させ、成長させなさい。自分が知っている掟を守り続けるために愛と思いやりを捨てるのではなく、掟を捨て、代わりに愛と思いやりを与えなさい。


 「15あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5:15)


規則だからとか、そうしないと神様にが罰せられるからとか、そういう理由で私たちは律法を、法律を守るのではありません。神の民はかつて奴隷であったからこそ、他の人たちが代わりに休めるために自分達が犠牲を払って苦しむことの意味を知っている。そして私たちの神様は、このようなことを二度と起こしてはならないと私たちに命じたのです。私たちの目の前で。


たとえそれが、私たちに敵対する者たちの陰謀を招くことになろうとも、私たちを滅ぼそうとする敵の陰謀を結集させることになろうとも、キリストのように私たちをゴルガサへの長く孤独な道へと歩ませることになろうとも、他の者たちが立ちすくみ苦しむ中で、私たちが安らかに重荷を下ろすことは許されません。


安息日を守るのです。聖なる日を守りなさい。飢えている人に食べ物を与え、病人を癒し、囚人を解放し、虐げられている人に正義をもたらし、金持ちの畑から穀物の頭を奪い取り、神の御前に大胆に立ちなさい。どんな法律も神様の愛を妨げることはできないし、どんな規則もキリストの憐れみを妨げることはできないのです。


安息日を守りなさい。聖なる日を守りなさい。あなただけでなく、すべての人が休むまでは、安息日ではないことを心に留めて。


アーメン。















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