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Rev. Don Van Antwerpen

「善意と誠意」

ヴァンアントワペン ドナルド牧師

Unfinished Community

2024年11月3日

マルコによる福音書12:28-34


今日の聖書箇所はみなさんに馴染みのある箇所だと思います。私たちUnufinished Communityのコミュニケーションツールである、Discordサーバーを使われている方々は私にとって、今日の聖書箇所がどれほど重要かはすでにご存知だと思います。私は週に1、2回はこの聖書箇所について、Discordサーバーで言及していますし、キリスト教の教えにおいてもこの聖書箇所は頻繁に出てきます。ですから多くのみなさんが、今日の聖書箇所の教えがどのようなものかを大体ご存知だと思います。

その教えとはこうです。神様を愛し、互いに愛し合うこと。他のすべての神様の教えは、この2つのことを基礎にして理解するべきである。律法、預言者たちの教え、公正・正義を求める聖書の言葉、抑圧、貪欲、富、権力に反対する神様の働き、真の完全な愛の体現者である全能の神様に従う者として、私たちが何者であり、何をするように召されているのかは、この二つの教えのバランスをとることで理解する事ができるのです。

神様を愛すること。互いに愛し合うこと。

まずは十戒について考えてみましょう。十戒の本質は、神様を愛し、互いに愛し合うという2つに集約されます。

申命記に掲げられる律法の全内容、例えば毛糸と亜麻糸とを織り合わせた着物を着てはならないという個人レベルで課されるものから、移民や難民を迎え入れなさいという地域レベルで課される戒め全てが高き御方の神様の神様を愛し、互いに愛し合うという戒めに集約されます。

神様を愛しなさい。互いに愛し合いなさい。

私たちがキリストにおいて与えられている自由とは何でしょう?聖書が記された当時の文脈から律法を見ることで現代の状況に当てはまる形に再解釈し、私たちが生きる複雑な現代社会に合うように律法を設定し直すことなのでしょうか?いえ、そうではありません。解釈を必要とせず、文脈の分析を必要とせず、また時代が変わっても変わることがなく、私たちがいつでも立ち返ることのできる唯一の戒めそれは、

神様を愛しなさい。互いに愛し合いなさいです。

これこそが信仰の定義であり、神に従うとはどういうことなのかを示す指針です。神様がこの世界を創造され、私たち一人ひとりに息吹を吹き込んでくださいました。神様を愛する、互いを愛するという戒めを守ることにより、私たちは神性によって定められた継続的な創造と変化の働きの一部になることができます。

神様を愛し、互いを愛する。

これこそが、私たちクリスチャンがこの地上での時間を何に費やすべきかをめぐるあらゆる疑問、あらゆる混乱、あらゆる議論に対する答えです。

神様を愛し、互いを愛することで、私たちは、私たちの人生に入ってくる様々な情報、新しい考え、新しい解釈をフィルターにかけ、答えを見つける事ができます。イエスキリストご自身もこの二つの戒め、(神様を愛する、互いを愛する)を全うし、この地において宣教に励まれ、その終着点として私たちの罪のため、世の全体の罪のために、十字架にかかられ、死なれました。なぜそのようにされたのでしょう?それは神様を愛し、人類を愛されたからでした。

神様を愛し、互いに愛し合う。

このシンプルな戒めについて、15分−20分一体何を説明することがあるのでしょう?みなさんそう思ってはないでしょうか?正直なところ、私も最初そのように思いました。このようによく知られた、キリスト教の教えの基礎となる聖句を、一体どうすれば いつもとは違う視点で、面白く、みなさんに新しい気づきがあるようにお伝えすることができるのだろうか?そのような思いを巡らしているうちに、いつもするようにまずは文脈を考えてみようという思いに至りました。

イエス様が言う2つの戒めを理解するために、今日一緒に見ていきたいと思うのは、今日の聖書箇所周辺の章です。今日の聖書箇所の1章手前、11章にはイエス様と当時の宗教指導者たちのやりとりが書かれています。11章の終わりでイエス様は再びエルサレムに立ち寄られます。するとすぐに、祭司長、律法学者、長老たちがやってきてイエス様に詰め寄ります。(マルコによる福音書11:27)それはイエス様が群衆に支持を得ていく姿を見て、彼らが危機感を抱いたためです。

神様の教えに関してのイエス様の語りかけに矛盾や、欠点がないかと彼らは探ります。イエス様を問い詰めようとしますが、うまくいきません。そこで彼らはファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエス様のところに送り込みます。(マルコによる福音書12:13)すると彼らはイエス様にこう問いかけます。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(マルコによる福音書12:14)イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコによる福音書12:17)と、応答します。

税金についての質問を通して、宗教家たちは、(皇帝に税金を納めるとだけ答えれば)イエスを異端の罪で処刑する、もしくは(神様に納めると答えれば)ローマ帝国の総督に国家への反逆を煽った罪でイエスを処刑せるという計画を企てていたのでしょう。しかしイエス様はその見事な話術で、異端、もしくは反逆の罪に問われることを逃れただけでなく、誰もイエス様に反論することができないように応答したのです。

次にサドカイ派の人々がやってきて、複雑で不明瞭な神学的推論をイエス様にぶつけようとします。(マルコによる福音書12:18)しかしイエス様は彼らがぶつけたのと同じ律法主義的神学的推論を用いて彼らを打ち負かすだけでなく、彼らの前に立ち、臆することなく、「あなたがたは大変な思い違いをしている 」(マルコによる福音書12:27)とはっきり言い切るのです。

イエス様を陥れようとする悪意に満ちた宗教指導者たちが次から次へと、イエス様を口論の罠に陥れようとするとき、私たちは次にどのような事が起こるか簡単に予測できるのではないでしょうか。次来る者もまた例外にもれる事なく、イエス様を捕らえるために、新しい議題を持ち出し、理屈をこねたり、イエス様を陥れる意地悪な質問を投げかけたりするに決まっている。

つまり、これはラウンド4。ファリサイ、ヘロデ、サドカイ派の宗教家たちとイエス様の対決が終わり、今度は律法学者のラウンド。対イエスキリスト、第4ラウンド。

正直なところ、アメリカの大統領選挙戦において、トランプサポーターがしていることは今日の聖書箇所の宗教家たちがしていることと同じことです。トランプを擁護するグループは議論を戦闘のために用い、議論を敵に勝利する手段として用いるのです。

世俗的な私たちは今日の聖書箇所で律法学者がイエス様に投げかけた質問を、即座に頭の中で剣に変えます。ファリサイ、ヘロデ、サドカイ派の宗教家たちのように、この律法学者もイエスキリストに対する勝利を目標にし、イエス様を陥れる悪意を持って、言動しているに違いないと。そしてイエス様が陥れの悪意を意図する宗教家の口攻撃を神様の知恵を持って次々と静止してきたように、この律法学者にも同じように応答するに違いないと。

しかしそうではありませんでした。

律法学者は悪意を持ってイエス様に向かい合ったわけではなかったのです。イエス様の言葉じりをとらえてイエス様を陥れようとしたファリサイ派やヘロデ派の人々(マルコによる福音書112:13)のように振る舞うのでもなく、復活はないと言っているサドカイ派(マルコの福音書12:18)のように自分の信仰に確信を抱くのでもなく、律法学者は交わされていた議論を聞き、イエス様が立派に答えられていたのを見ていました。(マルコによる福音書12:28)

実際、律法学者は、イエス様が明らかにされた神様の真理を認めた上で、イエス様に疑問を投げかけます。イエス様は律法学者のその言動に対し、「あなたは神の国から遠くない」と律法学者に言われるのです。

律法学者とイエス様のやりとりの中に悪意はなく、陥れる意図もありません。二人は相手の弱点を見つけようと必死に論じる堕落した宗教家たちのように振る舞うわけでもなく、やりとりの中で駆け引きをしようとしているのでもありません。そこには戦闘、議論、討論がないばかりか、相手を打ち負かすという考えはないのです。

そこにあるのはただ神様の真理を追求しようとする姿。神様に仕える者同士が誠意を持って、正直に分かち合っている姿です。

私たち人間は、一般化するのが大好きです。聖書の中で描かれる祭司長、長老、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、全ての宗教家と宗教指導者たちは腐敗と悪意に満ちた悪者、イエスに敵対するものと最初から決めつけ、そのような目で彼らをみます。

しかしたとえ悪意を持っていたとしても、どの人間も、一人の人間として敬意を持って対応され、扱われるに値します。それが神様の考え方です。11章の27節から聖書をもう一度読んでみてください。イエス様は、ご自身を疑ったり、決めつけたり、悪意を持って陥れようとする人々が投げかける質問に対し、非難や攻撃で応対していないことに気づくのではないでしょうか?もちろんやり取りの中で、イエス様が最終的ににそれらの人々の偽善や腐敗を明るみにはしています。が、イエス様は多くの宗教家達がしたように最初から攻撃、戦闘姿勢を持って、人々には接していないのです。なぜならイエス様は常に、善意、誠意を持って人々に接するからです。

イエス様は知っておられます。井戸のやもめから、路上に住む孤児、避難場所を求めてさまよう移民や難民、私欲や権力で身を固めた宗教家たち、当時の神殿を堕落に追い込んだ宗教指導者たち、そして今日ここにいるあなたや私。つまりすべての人、私たち全員が、どんなに道を踏み外したとしても、私たちはみな愛すべき神様の子であることを知っておられます。私たち一人一人は、人生においてどのような悪意を持ってきたとしても、どのような悪意を働いたとしても、神の御姿を受け継ぐ者なのです。

私たちの信仰者としての歩みにおいて最も難しいことのひとつは、戒めの第二の部分つまり、「隣人を自分のように愛する」を実践することでしょう。

隣人を愛するということは、人々の悪意を見抜いたとしても、ねじ曲がった神学や腐敗した社会観を通り越して手を差し伸べることを意味します。私たちが時として耳にする憎悪に満ちた暴言を脇に置き、時には襲ってくるパンチのひとつやふたつをかわして、悪意に満ちた暴言の壁の向こうから恐れおののきながら見ている人々を助ける ことでもあります。

イエス様は隣人を愛しなさいと命じるだけでなく、それがどういうことかを私たちの前で体現してくださっているのです。

私たちの多くがそうするように、イエス様には、律法学者がイエス様を陥れるために、悪意を持って攻撃すると信じるだけの理由がありました。それまでの宗教家達はみんなそうしてきたのです。しかし、イエス様は投げかけられた質問を批判的にはとらえませんでした。逆襲したり、逆に陥れようと罠を仕掛けたりすることはなかったのです。

イエス様は見ておられました。耳を傾けておられました。そして、悪意があると思われる状況に対しても、常に善意と誠意を持って神様の教えを、自分の置かれた立場から表明されたのです。

米国に住む方々、そしてアメリカの人々は、これから数日、数週間、悪意を持って行動する多くの人々を目撃することになるでしょう。暴力的で残酷で、偽善的な言葉を耳にするだけでなく、テロ行為、それよりもひどいことを目撃するかもしれません。そして、そのような言動を取る人々を敵として見なし、自分達の心の中でそのような人々を「隣人」というカテゴリーから切り離し、イエス様が私たちに示された戒めに逆らい、隣人ではない悪人に対しては誠意をもち配慮や、思いやりを持って接する必要はないと自分達に言い聞かせ、行動するかもしれません。そうすることはとてもとても 簡単なことです。


しかし生まれながらに人種差別主義者、女性差別主義者、同性愛嫌悪者、偏屈者はいません。生まれながらにして憎しみに満ち、残酷で、愛のない人はいないのです。悪意や、偏見は私たちが完全ではないこの世に生きる上で、身につけてしまった負債です。しかしキリスト・イエスに従う者として私たちに課せられたことは、神様の正義のために大胆に立ち上がること、弱い立場の人々や虐げられた人々を守るために立ち上がること、すべての人々のために、愛することにおいて不屈であり、平和の追求において妥協しないことです。

私たちはそれらのことを常に 誠意と善意をもって しなければなりません。私たちは敵のように思える人々の中に内在する善良さを認識し、それらの人々が投げかける質問に耳を傾け、嘲笑ではなく誠意を持って、防衛や反逆ではなく善意を持って神様の真実を答える用意を常にしておかなければなりません。

それが隣人を愛するということなのですから。


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