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「嵐に耐える」

  • Rev. Don Van Antwerpen
  • Jun 22
  • 9 min read

Unfinished Community教会

ヴァンアントワペン ドナルド牧師

2025年7月22日

—愛と感情の嵐の中で、静けさの神を聴く—

皆さん、先週は「愛」についてご一緒に学びました。愛の大胆さ、愛の力、そしてこの世界にある愛を受け入れることの絶対的な必要性についてお話ししました。

そして今週も、「愛」についてのテーマをもう一度取り上げ、お話ししたいと思います。

ええ、驚かれるのも無理はありません。私自身、2週間連続同じトピックで説教をすることは初めてなのですが、今回は、本当に深く掘り下げるに値する、非常に重要なテーマが与えられていると思いましたので、「愛」に関してもう一歩踏み込んでみたいと思った次第です。

「愛」というテーマはとても良いテーマです。なぜなら、愛というのは、本来シンプルであるはずなのに、私たち人間にとってはとても複雑に感じられるからです。先週は、その複雑さを解きほぐし、愛についてシンプルに考えることについてお話ししました。

つまり、「愛する」ということにまとわりつく恥や社会的な否定を取り払い、自由に、恐れなく、思いきり愛を表現する、受け取る、抱きしめることの大切さについてお話ししました。

しかし、人間の営みにありがちなことですが、「大胆に進む」ときほど、人間は「間違った方向に突き進んでしまいやすい」のもまた事実です。そしてその「行き過ぎ」が特に起こりやすいのが、「愛」と「宗教」という、皮肉にも私たちがもっとも理性的、冷静であるべきだと思い込んでいる領域なのです。

私たちは、自分のことを理知的で冷静な人間だと思いがちです。思春期のような爆発的な感情や、盲目的な恋愛とは一線を画した、「真実の愛」を自分はちゃんと見分けられると思っているのではないでしょうか?宗教的な感動に満たされる時も、自分はちゃんと冷静に霊的体験とカルト的な誘導の違いを見極められるとどこかで信じているはずです。私たちは「自分こそが真理を知る者」「唯一正しい道を歩んでいる者」「神の召命を正しく理解している者」だと、無意識のうちにどこかで自負しているのです。

でもその姿は、まるで恋に夢中な十代の若者のようでもあります。「誰も私のこの気持ちなんて分かってくれない! この感情は特別なの!」と叫ぶ姿だからです。

「お父さんには分からない、これは特別なんだから!」

感情というのはときに、自分でも驚くほどの自己正当への誘惑へと私たちを導きます。だからこそ、私たちには「信仰」が必要なのです。感情に突き動かされて道を誤るのではなく、神様が私たちに望んでおられる愛を生きるために。

もしかしたら今こう思っている方もいるかもしれません。「あれ?ドン先生、先週は『思いきり愛しなさい!』って言ってませんでしたか?『限界なく、恥じることなく、境界線を越えて愛しなさい!』って言ってましたよね? それなのに今週になって急に『自分の愛を抑えなさい』って話になるんですか?」

でもここで、とても大切な「区別」についてお話ししたいと思います。この区別は、私たちが日々の中で見落としがちなものですが、聖書が語る愛とは何か、そして「神は愛である」とはどういう意味かを理解するうえで、欠かせないポイントだと思います。


高校生の頃、私は恋に落ちました。

彼女はとても魅力的な人でした。親切で、可愛くて、自分自身があって。そして何より、彼女には人間としての「深み」があるように感じられました。ただ見た目が美しいだけではなく、彼女はわたしの「魂」に触れることができる、そういう人だと思ったのです。

その恋は、私の心を完全に揺さぶりました。彼女のために詩を書いたり、彼女のことを日記に綴ったり、彼女との未来の夢を描いたり——彼女と結婚したらどんな人生になるか、どんな家庭を築くのか、その時のわたしはそのようなことを本気で考えていました。

当時の私は本気でした。「これはただの片思いじゃない。運命の相手なんだ」と信じて疑いませんでした。周囲に笑われようが、親に反対されようが、「この思いは本物なのだ」と思っていたのです。

どうしたらその感情が本物かわかるのか?と尋ねる父に、私は怒ってこう言い返しました。

「知っているかどうかじゃないんだ!」

「『感じている』かどうかなんだよ!この感情が、僕の頭の中すべてを、僕の人生すべてをかき乱してるんだ。心の奥底から、思考も、望みも、すべてを焼き尽くして、この人のことを想っているんだ!こんなことができるのは、神様以外に誰がいるっていうんだ?」

もちろん、年齢を重ねた今では、当時の自分の雄弁さを多少美化しているかもしれませんが、少なくとも言いたかった趣旨はこのような感じでした。

私のそのような言葉を正確に覚えてはいないにしても、私の言ったことに関しての父の返答だけは決して忘れません。その時父は、普段の父らしさはなく、私に対して彼は一言も発しませんでした。ただ、ソファの横のテーブルから古い聖書を取り出し、開いて、列王記上19章10節から13節を私に読んでくれたのです。

 10エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」 11主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 12地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。 13それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

少し間を置いた後、父は私にこう語りました。「人生には、自分が神様と出会ったと確信させるようなことが本当にたくさんあるんだよ。自分だけが真理を見抜いていると錯覚させるほどの感情、自分の内面を焼き尽くすような思い込み、頭の中の岩を粉々に砕き、大風のように自分を吹き飛ばすような衝動が人間の中にはある。」

「けれど、それが本当に『神』”かどうかなんて、分からない。ただ、『神に違いない』と“感じている”だけなんだ。」

父は私にそう言ったのです。

生物学的に言えば、私たちの「感情」は、情熱を駆動するために存在しており、本来は「理性」によって調整されるべきものです。生理的な観点から言えば、私たちの感情、特に「愛」、「欲望」、「自我」、「所有欲」、「力への執着」などは、まるで依存性薬物のように脳内で働きます。私たちが経験している「嵐」は、実のところ、脳内でドーパミンが大量に分泌されているだけのことなのです。

そして私たちはその「感覚」を一度味わうと、誰もが「中毒者」のように振る舞い始めます。その快感を再び味わいたくなり、何度でも味わいたくなる。その快感の邪魔になるものは、すべて排除し、感覚をもっと味わおうとして、それを求めて突き進むのです。

では、私たちの「感情」が真実かどうかを、どうやって見分ければよいのでしょうか?あるいは、それがただ脳が気まぐれにドーパミンを放出しているだけの現象でないと、どうやって判断するのでしょうか?

私たちには上司もいませんし、感情が暴走したときに頭を叩いて止めてくれる懲罰的な存在もいません。クリスチャンとして、私たちは特定の「行動規範」によって縛られているわけでもありません。たとえどんな感情を持とうとも、律法によって自動的に正しい道を歩めるわけでもありません。

そんな状況の中で、私たちに与えられているのは、たった二つだと思います。

「信仰」と、「その信仰によって結ばれ、キリスト・イエスにあって神の子とされた共同体」です。

この共同体は、私たちの背後に立ってくれています。自分の心が道を誤ったとき、自分の感情に支配されてしまったとき、ただのドーパミンによる「一時の快楽」に惑わされるとき、神様はそのことを、かつて私の父がそうしてくれたように、私たちに愛をもって伝えてくれます。

私たちが「とんでもなく愚かなこと」をしようとしているとき、あるいは「すでにしてしまったとき」、それを止めてくれる存在。それが共同体を通して聞く「責任ある助言」であり、それが私たちを神の愛の道にとどまらせてくれる最初の防波堤なのです。

しかしそれ以上に、私たちに真実を教えてくれるのは、私たちの神様への信仰であり、キリストを通して得た「神様がどういうお方であるか」に対する理解です。

あの胸を焦がす思いから、数十年が経ち、今振り返ってみると、あの時の「確信」は、やはり「感情の嵐」にすぎなかったのだと分かります。

あれが「愛」だったかと問われれば。ええ、たしかに、あれも愛の一部ではあったと思います。でもそれは、未熟な愛、感情に支配された愛、自分自身の欠けを埋めようとするような愛だったということに気づきました。

「コリントの信徒への手紙一13章」は、私たちにこう語りかけます。

4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

ここで言う「愛」は、情熱やロマンチックな感情とは、少し違います。

この愛は、深く、静かで、揺るぎない愛です。たとえるなら、それは嵐の中の静けさのようなものです。

皆さん、嵐に巻き込まれたことがありますか? 激しい風、容赦ない雨、雷鳴。嵐の中に置かれると心も体も、ぐちゃぐちゃにされてしまいそうになりますよね。

でも、時に嵐の「目」、つまり中心には、驚くほどの静寂があるのです。

神様の愛もまた、そういうものです。私たちが人生の嵐に巻き込まれている時、感情が渦巻いて、何が正しいのか見えなくなる時、そのただ中に、静かに働いておられる神様の愛があります。

神の愛は、「大声で叫ぶ」ものではありません。今日の聖書箇所にある旧約聖書の預言者エリヤが体験したことを思い起こしてみてください。

主は風の中にはおられなかった。地震の中にも、火の中にもおられなかった。

しかし、かすかな細い声の中に、主はおられた。(列王記上19:12)

私たちはしばしば、愛を「燃えるような感情」「揺さぶる体験」だと勘違いしてしまいます。

でも本当の愛、神の愛は、静かで、深く、そして決して消えないものなのです。

皆さんに、ひとつ質問をさせてください。

今、あなたの人生に嵐が吹き荒れていませんか?感情の嵐、人間関係の嵐、信仰の揺らぎ、未来への不安など。

もしそうなら、その嵐の中心で、静かに語りかけておられる神の声に耳を傾けてみてください。

そこには、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」愛があります。

あなたが感じている不安や恐れは、本物かもしれません。でも、感情に振り回されることなく、神の愛の中で立ち止まることを、どうか恐れないでください。

祈りましょう。

神様、どうか私たちに、あなたの静けさの中にある愛を教えてください。

私たちが嵐のただ中でも、あなたに目を向け、「これは違う!」と叫ぶのではなく、「主よ、あなたの御心を教えてください」と静かに祈れる者であれますように。

アーメン。

 
 
 

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