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「旅の始まり」

  • Rev. Don Van Antwerpen
  • 6 days ago
  • 11 min read

Unfinished Community教会

ヴァンアントワペン ドナルド牧師

使徒言行録9:1-19


みなさん正直に答えましょう。私たちが今一緒に読んだ今日の聖書箇所のお話し、つまりダマスコ途上でのサウロの回心は、福音書以外の新約聖書で私たちの誰もが覚えている唯一の話ではないでしょうか?


というのも、新約聖書において、神様の働きを強く感じることのできる印象的な物語は、ほんの一握りしかないからです。炎のような舌が舞い降り、違う場所から来た人々が「霊が語らせるままにほかの国々の言葉で」(使徒言行録2:4) 話しだしたペンテコステのお話は別として、新約聖書の大部分のお話は退屈なお話だと思いませんか?


福音書(マタイ、マルク、ルカ、ヨハネによる福音書を指す)を読み終え、使徒言行録を読み始めると、まず最初に目にするのは、初代教会で仕えるリーダーチームが招集され、チーム内に欠員が出たため、その補充をするために秩序だった選挙が行われるというお話です。


ですから使徒言行録を読む進める中で、まるで雲の上の存在である神様が、他宗教で有名なゼウスのように現れ、全ての問題を、悪の根源を根本的に、そして即座に変えてしまう、今日のようなお話は私たちを惹き込む力があります。シャマイハ派の熱心なファリサイ人(ユダヤ教の宗教指導者)であり、社会における階級において高い位置を占めていたサウロは、「この道」(ユダヤ教の教えにはない、救世主がイエスキリストと信じるグループ・後にクリスチャンと呼ばれるようになる)の信仰者を迫害するために、それらの人々を探し求め、裁き、拷問、そして処刑するためにエルサレムに連行しようとしていました。(使徒言行録9:1-2)


残忍な迫害者であり、異端と見なした人々を追い詰めることに喜びを感じていたどうしようもなく残酷な男サウロ。絶対的な原理主義者のように見えるサウロは、神様からの命令により、目が見えなくなるが、それが一人の男を通して癒されるという、人生を変える経験をします。


多くの人は今日のお話をそのように解釈していると思います。


しかし、補足したいのですが、「アナニア」(使徒言行録9:10)というサウロの目を癒す男はただの ある男ではありませんでした。彼はクリスチャンだっただけではなく、キリスト教の歴史における初代クリスチャンの一人でした。カトリックの歴史によれば、アナニアはダマスコ地域における初代大司教であり、殺された後、遺骨はローマに運ばれ、サンパウロ大聖堂に埋葬されたと言われています。


要するにアナニアは一般人ではなかったわけです。


キリスト教の前身である「この道 」に従う一人の信仰者として、アナニアはタルソス出身のサウロが誰であるかをもちろん知っていました。サウロは「この道」に従うものたちにとって脅威なる敵だったからです。主が幻の中でアナニアのもとに来られると、強い信仰を持つアナニアは素早く率直に応答します(使徒言行録9:10)。しかし、「この道」に従うアナニアにとって、自身の信仰の迫害者、敵であるサウロを助けるようにと神様から頼まれた時。彼はどのように思ったのでしょう?(使徒言行録9:11-12)


これは私の脚色ですが、アナニアは


「神様、からかっているのでしょうか?この男に手をおいて、目を見えるようにさせるだなんて?」


と思ったのではないでしょうか?


しかしアナニアは、サウロに対する恐怖と懸念・疑念を克服し、ダマスコに向かい、「この道」の迫害者サウロ、悪人のサウロ、キリスト信者を束縛し拷問しているサウロに会いに行くのです。


アナニアはサウロを訪ねます。そして彼に語り、神様の求めに応じて、サウロの上に手を置き、彼の見えなくなっていた目を癒します。


その瞬間、サウルは飛び上がり、即改心し、忍耐強く、主に献身的に仕える人生を即歩み始めたでしょうか?


今日の聖書箇所を読む限り、そのような感じではないようです。


私たち人間は、変化がすぐに起こると思いたい生き物です。そしてその考えはとても魅力的です。自分の何かを変えた瞬間、物事を変えると心の中で決めた瞬間、今までの自分ではないと即信じたくなるわけです。神様が私たちの人生に足を踏み入れ、神様ご自身の指をパチンと鳴らすだけで、すべてが変わり、私たちは何かをする必要もなく、全てを神様にお任せし、二度と過去の過ちやトラウマのことを心配する必要がなくなると考えたくなる、私たちはそういう生き物です。


でも信仰における人生とはそのようなものではありません。


ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、今日のお話の主人公サウロは、後にパウロと呼ばれる新約聖書にある書物の多くを記した、世界中にキリスト教を広めたキリスト教宣教のパイオニアです。しかし今日のお話の中でサウロはまだパウロではなく、サウロと呼ばれたままです。それはつまり、人間は一夜にして魔法がかかったように、新しい人間になるわけではないからです。サウロの改宗・回心は今日の聖書箇所である使徒言行録9章の冒頭で起こりますが、サウロがパウロとして再び登場するのは、13章になってからです。そして13章に出てくるパウロは、パフォスの街角で他の宗教を売り歩いている説教者に向かって、こう言います。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。」(使徒言行録13:10)


私たちがパウロについて聖書を通して深く知ることができる理由をみなさん、考えたことがありますか?それは、パウロがエルサレムで教会を運営していた使徒たちが作り上げていた教会の形に自分が入ることを神様の導きとせず、そこに加わるでのはなく、ギリシャ、イタリア、アフリカに飛び出し、それらの地で全く新しい教会を設立し始めたからです。新約聖書の大半を占める書簡は、パウロが設立した諸外国にある多くの教会のために彼が書いた手紙なのです。


このようなパウロの歩みを思う時、パウロ(サウロ)が一瞬にして、忍耐強く、思いやりに満ち溢れた信仰者に生まれ変わったと言うことはできないでしょう。


むしろパウロはクリスチャンを迫害する過激派から、イエス様の働きを前進させるためにキリスト教における過激派に転向したように思えてくるのではないでしょうか?


パウロが一瞬にして真の信仰者として変貌を遂げたのであれば、新約聖書はきっともっと短い書物となったのでしょう。しかしそうではなく、パウロは信仰者として葛藤し続けたのです。パウロは、信仰者として、自分の肉の思いで動くのではなく、忍耐強く、思いやりを持った信仰者であり続けようと努力し続け、その様子が新約聖書に記されたのです。


サウロはキリスト教の信仰を持ちましたが、それでも全く違う人間になったのではなく、彼の使命が変わり、違う生き方を選ぶように示され、導かれただけなのです。


私たちは、サウロが神様によって一瞬で、私たちが知っているパウロに変えられたと信じたい、そういう生き物です。私たちは、神様が私たちの世界に降り立ち、その力強さを誇示し、一瞬にして貧困、環境汚染、偏見、憎しみ、死、戦争、争いすべてが消え去ることを望んでいます。


しかし、信仰における旅路の現実はそうではありません。


サウルの名前は4章先を進まないと(一瞬の出来事ではなく)変わりませんし、サウロ・パウロの残りの人生は、過去のような過激派にならないために努力をしたがなかなかうまくいかなかった様子が書かれています。


アナニアの立場からも今日のお話を考えてみましょう。サウロが自分の家の玄関先までやってきて、癒してほしいと悔い改めをしに来たから彼は、サウロを癒したわけではありません。そうではなくアナニアは、神様からサウロが滞在している場所を突き止めるように、自分から出かけ、今まで自分の仲間たちを散々迫害してきた者を探すことを命じられたのです。自分を縛り上げてエルサレムに引きずり戻し、処刑することのできる男のところに出向き、その男に奇跡的な癒しを施すように、神様から命じられたのです。


私たちの信仰における旅路もそうです。


神様が私たちに指し示す道は、神様の奇跡に自分自身を、自分の人生を完全に任せることによって、私たち自身の責任を放棄して、安易な道が用意されるという意味ではありません。そうではありません。


神様を信じ、神様に従って生きるという事は、今までのページを燃やし、まったく新しい物語を始めることではありません。神様に従って生きるということは、私たちの今までの

不完全で、傷だらけの人生を終わらせ、まったく新しい人生を始めるということでもありません。


神様がおこされる御業は、私たちが何者であったかを消し去ることで完全なものとされるのではありません。私たちがなろうとしている自分、神様が私たちになってほしい自分を受け入れることによって、成就されるのです。私たちはそのことを日々、念頭においておかなくてはなりません。


信仰を持っていたとしても、どんなにその信仰が強いものだったとしても、私たちは間違いを犯す生き物なのです。昔のような不完全な人間に逆戻りしてしまう時もあるのです。どんなに忍耐強く、親切で、周りの人々に敬意と愛を示そうと努力しても、私たちはパウロのように、通りにいるホラ吹きの魔術師に対して怒り狂い、その人を悪魔の子と呼んでいる自分に気づく瞬間があることでしょう。


私たち人間はそういう生き物なのです。


神様は私たちに完璧を求めているわけではないのです。神様は私たちの努力、働き、忍耐、練達をご覧になり、引き続き私たちと共に働いてくださるのです。神様は、私たちが差し出す不完全で、はちゃめちゃな捧げ物を、神様の力によって良いものに、美しいものに変えてくださいます。


かつてサウロだったパウロは、信仰を持った後も歩く災難のような人でした。彼が従うと誓ったイエス様が設立した教会の説明責任と権威を一切無視し、自分の思いで突き進み、自分の思いを正当化し、異端と思われる人物の喉元に飛び込むという過激的な振る舞いを続けたパウロには内外に置いて敵が絶えませんでした。


しかしそのような振る舞いを続けたパウロを通して、私たちはイエス様を知ることになったのです。


パウロは完全な信仰者だったわけではありません。自身が設立した教会にいる異端者を怒鳴りつけたり、愚かな振る舞いをすることもありました。しかしパウロは人々にイエスの福音について話すことをやめず、パウロは彼を通して信仰に入った者たちが連ねた手紙、イエス様とその御業の証、神様が他の場所に作られた教会コミュニティにおいてどのように働いておられるのかについてたくさんのストーリーを携え、ダマスコに戻ってきたのです。


パウロは、他の教会指導者たちが集まるエルサレムに行き、そこに留まることを選びませんでした。そのことで彼はキリスト教会における人々への説明責任から逃れ、他の教会指導者の顔に泥を塗りました。しかしその決断と信仰の道のために、キリスト教がイスラエルの国境を超えて語られていきました。それはパウロが福音を語り続け、耳がある者、聞こうとする者に向かって叫び続けたからです。


やがて革命が起こり、ローマ帝国が降臨し、初代教会が一掃された時、完全な信仰者になりきれなかったにもかかわらず、働きをやめなかったパウロが残した遺産、ヨーロッパ、アフリカ、アジア各地に建てられた教会だけが残りました。


神様はサウロを迫害者としては見ませんでした。シャンマイ派のファリサイ人サウロとして、彼を見たわけでもありません。悪の根源のサウロでもなければ、キリスト信者を束縛し過激な神学を押し付けたサウロとして彼を見たわけでもありません。


サウロ。


タルセスのサウル。神殿で育ち、いつも主を愛し、主に仕えたいと願っていた少年。


神様はそれを見ておられました。神様はその少年サウロを尊く思われました。神様はサウロを愛されました。


そして神様はあなたをそのように見ておられます。


神様が見ておられるのは、あなたが連ねた失敗の山でもなく、どんなに努力しても完全に善良で、愛に溢れ、正しい人間になれないという終わりのないあなたの闘いでもなく、あなたの失敗や不注意でもなく、あなたの傷跡や痛み、トラウマでもないのです。


神様はただ、旅の始まりにいるあなたを見ておられます。今日どんな葛藤があなたの元にやってこようとも、あなたが何らかの方法で、神様があなたがなるべき人になろうとするのか、自分の務めに加え、神様が不完全な自分を何か美しいものに変えてくれることを信じて、ベストを尽くす準備ができているのか、神様はそのことを見ておられるのです。


だから、あなたはあなたのままでよいのです。不完全でいいのです。失敗してもいいのです。今日は新しい日、新しい週、新しい月。もう一度。トライしてみようではありませんか?神様はあなたを大切に思っています。あなたを愛しておられるのですから。


草は枯れ、花は色あせ、恥は霧のように消え去り、私たちの過ちも泡のように消えてなくなります。けれど私たちに対する神様の愛は、永遠に続くのです。

 
 
 

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