top of page
Search

供えるって何?そこに隠された神様の意図

Rev. Don Van Antwerpen

Unfinished Community教会

ヴァンアントワペン亜希子牧師

申命記26:1-11 (新共同訳) 



今日の聖書朗読は申命記と呼ばれる箇所からです。申命記では、神の民であるイスラエルの人々の歴史において最も困難な時期の事が書かれています。今から3200年以上前、イスラエルの人々は40年間荒野をさまよわなければいけませんでした。もちろん、神様は人々をいきなり荒野に連れてきたわけではありません。長い一連の出来事の結果、人々は40年間の荒野での生活に直面することになったのです。

 

初め、イスラエルの人々は神様から良い地を住むべき場所として与えられていました。神様は人々のために、安全、安心、そして豊かな楽園での生活を創造し、用意されたのです。しかし、一人の人間が神を信頼しない決断を下したとき、その決断が全てを変えます。その結果、神様が計画されたその家族の人生が変わり、その結果、その家族が属する部族全体の人生が変わったのです。イスラエルの人々は故郷を離れ、故郷を追われ、ホームレスとなります。そして異国の地エジプトで奴隷となるのです。人々は支配者であるエジプト人からひどい扱いを受けます。わずかなものしか与えられないのにもかかわらず、与えられる以上のものを要求される生活が何百年にも渡って続いたのです。

 

人々の生活は苦難と抑圧に満ち溢れていました。

 

神様は人々の苦しみをそのままにはしませんでした。神様は人々の嘆きの声を聞かれたのです。そして神様はモーセという人を選び、彼を人々の指導者として立てることで、民を脱出、解放の道へと導きます。人々を自由で、乳と蜜の流れる豊かな土地へと導かれることにしたのです。

 

しかし、この約束の地に辿り着くまでにも様々な困難がありました。思い出してください。これは少なくとも3千年以上前のことです。公共交通機関もなければ、飛行機も列車も車もありません。人々は歩いて、その約束の地へ辿り着かなければならなかったのです。

 

神の民は40年間、荒野をさまよい、野営地から野営地へと移り住み、神様が導くと約束してくださった土地に向かおうと、時には先住民と争い、戦いました。

 

しかし、時が経つにつれて、人々は荒野での生活がエジプトでの奴隷としての生活と変わらないどころか、それよりもひどいものなのではと思い始めます。少なくとも奴隷であったときは、日々の衣食住が保証されていました。食べ物も水も住まいもあった訳です。しかし、今の生活は、日々空腹とのどの渇きに苦しむだけではなく、先が全く見えません。神様は、モーセは、一体いつ自分たちを約束の地に導いてくれるのだろう?人々の猜疑心は高まり、指導者たちの間でも、民衆の間でも争いが起こりはじめます。神様を信じる事ができなくなり、他の神様を信仰しかけることもありました。しかし、神様は決して民を見捨てず、見限ることもせず、40年という月日が流れます。そしてついに人々は神様が民に与えようとした約束の地に近づいたのです。

 

しかし、その前に神様はモーセを近くの山に呼び寄せ、そこで十戒という戒めを授けられます。聞いたことがありませんか?

 

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神であ  る。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」

「殺してはならない。」

「姦淫してはならない。」

「盗んではならない。」

 

そうそれです。

 

しかし、神様が人々に与えたのは10の戒めだけではありませんでした。神様は安住の土地を手にする民が、荒野ではない環境でどのように生きていくべきかを記したルールブックをモーセに授けたのです。全ての人々が安全に定住するために必要な公正な社会の築き方を記したのです。

 

その一つが今日私たちが聖書箇所として読んだことです。

 

「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、 あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物(のいくつか)を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。」(申命記26:1-2)

 

約束の地に着いて定住したら、初穂を神に捧げなさい。あなたがたは肥沃な土地に導かれ、そこがあなたがたの住まいとなる。この土地は乳と蜜で満たされているから、そこに植えるものは全て豊かに育つ。そして収穫の時には、あなたが育てたものがすべて、そして地面に落ちたものすべてがあなたのものになる。そのすべてが。

 

しかし、供えることを忘れてはいけない。定住の地においても共同体、すなわち神の 「教会 」が築き上げられるように、初物の(初物はベストなものという意味もあります)いくつかを神に捧げることを忘れてはいけません。

 

この時点で民は40年間、欠乏と飢餓に苦しんでいました。40年間、その日その日を生き抜くのに必要なだけの食べ物、飲み物が神様から与えられてきましたが、それはもちろん楽な生活ではありませんでした。そんな状況がこれからは一変する!自分の作物が与えられ、それが豊かに成長し、それを自分が消費する事ができるのです。消費できる以上に豊かに与えられるそんな生活が人々を待っているのです。

 

有り余るほど豊かな生活になるのだからだから、多くのものを与えられるのだから、収穫の初穂を神様と神様の共同体へ捧げるなんて、簡単なこと。神様が戒めとして命じ

なくてもできること。もしかしたらあなたはそう思うかもしれません。初穂のいくつかを神様が選ばれた場所に供えに行くという神様の戒めに従うことは、民にとって何の問題もないことだと思うかもしれません。

 

神様は人々をエジプトでの奴隷生活から救い、豊かで安全な生活が可能な土地に連れてきてくださったわけです。初穂のいつくかを定められた場所に供えに行く。なんてことはない。あなたはそう思うかもしれません。初穂の全てを捧げなさいと言っているわけではないし。初穂のいくつか。神様はそうおっしゃっておられるのだから。(新共同訳にはいくつかという言葉がありませんが、NRSVUEという英語の訳にはいくつかという意味を表すSomeという単語が使われています。)

 

初穂の一部を神の共同体に備えに行く。簡単なことのように思えますが、人々はそのようには振る舞いませんでした。収穫を神様以外の神や物事に供えたり、収穫を受け取る祭司がそれを自分の懐に入れたりしたのです。神様から賜った収穫を全て自分たちのために使ったのです。

 

なんてこと!どうしてそんなことができるのか?とあなたは思うかもしれません。神様がしてくださったことを忘れたのだろうか?民が受けたすべての祝福、今享受しているすべての収穫の中からその一部をなぜ神様にお返ししないのだろう?

 

なんて恩知らずで、貪欲で、ケチな人々。考えられない。

 

とそのように結論づけるのは簡単です。けれど私たちは他人の振る舞いに関しては厳しい目で見つめますが、それと同じように自分を自分の振る舞いを振り返ることはしません。

 

しかし、もし私たちが立ち止まり、自分の内面に目を向けるなら、私たちがこのイスラエルの民と基本的に同じであることに気づくのにそれほど時間はかからないでしょう。私たちに与えられたものを私たちは日々どのように使っていますか。私たちに与えられた時間、エネルギー、リソース、お金、これらをどのように使っていますか?どんな信念のもとにそれを使っているでしょうか?

 

私も含め、私たちの多くは、自分の時間、エネルギー、リソース、お金を、まず自分のため、自分の家族のため、自分が今重要、必要だと思うことに使うでしょう。それが人間の姿です。

私たちは、一番になること、一番でいること、自分を1番にすることが大好きな生き物です。私たちはまず最初に受け取りたい生き物です。良いものがいただけるなら尚更そうです。私たちはそれをまず最初に手に入れたい。分かち合ってもいいけれど、一番いい部分は自分のものにしたいと思うのではないでしょうか?

 

子供の頃、ディズニーランドでいとこにお土産としクッキーの缶詰を買いました。確かドナルドダックのクッキーの缶だったと記憶しています。(当時からドナルドという名前に惹かれていたんですね笑)私はその缶が気に入り、その缶をいとこにあげたくなくなりました。なので缶からクッキーの袋を取り出し、クッキーをいとこにあげたが、缶を自分のものにしたのです。ディズニーランドのお土産はキャラクター部分に価値がある訳です。結局、私はいとこに価値のないものを、価値あるものをあげるように振る舞ったわけです。

 

今思い出しても恥ずかしく、申し訳なくなる思い出ですが、私という人間の本性が現れている出来事だと思います。つまりプレゼントを贈ろうと良い意図を持っていたにも関わらず、最終的に私は自分が受け取る側になることを選んだわけです。

 

正直なところ、私だけがそのような振る舞いをしているとは思いません。私たち人間は受け取ることが大好きです。特に良いものを一番最初に、良いものの中のさらにベストな部分を受け取りたいと心の内で思っています。私たちは与えるより、受ける事が好きなのです。なぜなら与えることは時に、手放すことを意味するからです。与えることを選ぶ時、私たちは自分が決めた優先順位を変え、自分と自分の家族や大事な人々がまずは恵まれるという自己中心的な信念や日常生活のあり方を見つめ直し、今までとは違うように選択し、行動する必要があります。 そこにはある程度の犠牲が伴うのです。

 

20代の頃、ドンと私は東京に住んでいました。私たちは今でこそ牧師ですが、当時私たちは教会に通っていませんでした。平日はとても忙しく、土曜日に働くこともあり、日曜日は唯一寝坊をすることができる日でした。それだけでなく、当時は生まれたばかりの赤ちゃんがいたので、私たちは常に睡眠不足で、疲労困憊でした。時は少し流れ、かわいい娘が成長するにつれ、私たちは自分たちだけで生活を続けることに困難を感じ始めました。私たちは東京という、大都市のど真ん中でアメリカと日本のミックスの子供を育て、収入も少なく、心を許して付き合える友達もあまりいませんでした。自分たちの子育てがうまくいっているのかどうかを共に考えてくれる人も、相談できる人もおらず孤独を感じていました。私たちはコミュニティ、特に教会のコミュニティが自分たちには必要だと認識し、教会に戻ることを決めました。

 

私たちが教会に戻る動機は神様のためではなく、自分たちのためでした。けれど神様は良いお方で、私たちをお忘れにはなりませんでした。神様は、私たちに善良で心優しい人々に出会わせてくださいました。再び教会に通うことに慣れ始めた頃、当時子供ミニストリーを担当していたディレクターの一人が近づいてきて、私に、子どもたちの夏の聖書キャンプで、キャンプ・カウンセラーを務めてみませんかと私に尋ねてきました。

 

私はあまりのショックに大声で叫びそうになりました!私が?まさか!!!

 

当時私はまだクリスチャンになったばかりでした。子どものミニストリーをお手伝いしたこともないし、そもそも私は、先頭に立って人々をリードするようなタイプに人間ではないと彼女に伝えました。彼女に感謝をしつつも、私はそのような役職には向いていないと彼女に伝えました。

 

「本当に?そうかしら?あなたなら素晴らしいリーダーになれると思うわ。」彼女は本当にそう思っているかのような表情で私に言いました。私がそのような人間だとは思えませんでしたが、彼女の言葉に励ましを受けた私はその奉仕を引き受けることにしたのです。

 

しかし、この経験が素晴らしいもので、その結果私は教会の牧師になることを決心したともし思われるのであれば、それは全くの見当違いです。子供と真摯に向き合った私は毎日くたくたでした。家に帰ると毎日長い昼寝をとりました。たった5日間の奉仕ですが日々満身創痍で、祈りと共に教会に向かいました。しかし結局のところ、私にとって初めてのこの教会での奉仕の経験の中で最も印象に残ったことは、奉仕の喜びです。自分が奉仕をするために何かを失った、諦めた、我慢したという風には感じませんでした。むしろ人に仕える喜び、不完全で未完成な自分を捧げよう、用いてもらおうと決心しそんな自分が神様に用いられた喜び、自分の働きを通して他の人に笑顔をもたらすことができる喜び。それら全ての喜びに私の心は満たされました。

 

そして、使徒言行録にあるこの御言葉を思い出したのです。「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒言行録20:35)

 

聖書にあるこの言葉は私の中で真実となりました。自分のエゴや、自分のニーズや欲望を満たすより、他の人々に与えることを選んだとき、この御言葉は私の心に静かに根を下ろしました。そして私は気づきました。

 

教会はただ来て傷ついた自分が、彷徨っている自分が養われるだけの場所ではなく、同じように他の人々も満たされ、養われる場所なのだということを。教会は、未完成である私自身の不完全な捧げ物を神様が用い、人々に祝福を授ける特別な場所なのだと。神様は私たちの初穂を一人一人から受け取り、そこに集まる全員にその恵みを受け流す愛に溢れたお方なのだと。

 

最初の方でも言いましたが、神様は私たちの初穂の全てを要求しているわけではありません。初穂のいくつかと行っておられるのです。しかし私たち人間は、一部を捧げる、分かち合うことにさえ困難を覚える生き物です。しかし、神様の言葉を信頼し、私たち一人一人が自分たちに与えられた収穫のほんの一部を神様に捧げるとき、神様がそれを何倍にも、何十倍にも祝福してくださいます。神様の御業を目撃するのです。

 

自分を捧げる。自分が仕える。その考え方、生き方は何も教会生活だけに当てはまることではありません。神様は私たちに日常生活においてもそうあることを説いています。

 

最近、私は自分の子供の一人との関係に悩んでいました。私たち人間は認めたくはないけれど、ある人との関係がうまくいっていない時はわかりますよね?自分がその人に優しくできていないことを自覚するものではないでしょうか? 私はこのことをドンに相談しました。

 

ドンは辛抱強く私の話を聞き、私が話し終わるとこう言いました。「よし今日の夜、ファイナルファンタジーを子供と一緒にプレイするんだ」。

 

私は目を丸くしました。

 

「マジで?!」「ビデオゲーム?!!!!!」

 

私の家族はみんなビデオゲーム好きなのですが、私自身はまったくやりませんし、やりたいとも思いません。貴重な夜の時間を、私がしたくないことに費やすというのは、私が聞きたかった解決策ではありませんでした。私はその提案に乗ることに躊躇しました。

 

しかしそのとき、今日の聖句を思い出したのです。そして思いました。

 

神様は私たちにまず与えるよう求めておられることを。

 

その夜、私はファイナルファンタジー14にログインし、キャラクターを作りましたその時間が私の人生において最高の時間だったとはもちろん言いません。(笑)けれど私が一緒にプレイする時の、子供の喜ぶ顔を見たとき、その満面な可愛い笑顔を見たとき私は思いました。してよかった。子供の喜びは私の喜び。

 

私は幸せを感じました。ビデオゲームをして幸せを感じる。そういう風に言うことに今でも違和感を感じますが。。。

 

でも、それが現実に起こったことです。

 

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 」

これは、ヨハネによる福音書第15章の中で、イエス様が弟子たちに神様の教えてついて教えていたときに言われた言葉です。私たちが神様の教えに耳を傾け、その教えに従うとき、つまり、まず受けるのではなく、まず与えるとき、私たちはここでイエス様が語っておられる満たされる喜びを感じることができます。。

 

私たちの神様は、利己的で、ご自身の最善のために、私たちの初穂を要求するような方ではありません。私たちの神様は出エジプト記に描かれているエジプトの王のような抑圧の王ではありません。神様は、自分の欲望を満たすために、私たちに与えよ、与えよ、与えよと強要する独裁的な政治家ではありません。

 

そうではなく、与えること、分かち合うことからしか得られない特別な喜び、喜びが満たされるというを経験をすることができるように、神様は私たちに与えなさいといっておられるのです。

 

神様が与えてくださった恵み、賜物をあなたはどのように使っていますか?あなたはそれを消費していますか?それとも活かしていますか?あなたに与えられたお金、時間、エネルギー、その他のリソースをどのように使っていますか?それらをすべて自分や自分の家族のためだけに使っていますか?与えるけれど、十分な余剰があると感じたときだけ、あるいは余剰があるときだけ、そうしていますか?自分ができる時に、自分にとって都合の良い方法で、自分が決めた分だけ与えているのですか?

 

神様はあなたから祝福を奪おうとしているのではありません。むしろそれを何十倍にもしたい、その祝福を神の家で他の人と分かち合って欲しいと思っているのです。神様は、あなたが神様の祝福の一部となることを望んでおられます。あなたが祝福されたように、他の人々が祝福される、あなたの贈り物を通して。その時に満たされる大きな喜びを感じて欲しいと思っているのです。

 

その喜びを共に分かち合おうではありませんか?共に神様の言葉に耳を傾け、私たちがそれぞれ初穂を神様に捧げる時、一つの民として、共同体として私たちがどのような喜びを経験することができるでしょうか?祈りましょう。

 
 
 

Comentarios


bottom of page