top of page

自己因果の逆説

  • Rev. Don Van Antwerpen
  • 12 hours ago
  • 9 min read

Unfinished Community教会 ヴァンアントワペン ドナルド牧師  2025年7月6日 自己因果の逆説 

人生は…複雑です。そして、痛みを伴うものです。私たちは時に混乱することもありま

す。

そして私たちは、不完全で壊れやすい人間であるがゆえに、この複雑で痛みのある、混沌

とした人生の現実に直面すると、しばしばその現実を自分なりに「定義し直す」ことで対

応しようとします。

2 of 7

私たちは、自分の頭の中で「現実」を文字通り書き換え、自分にとって理解可能な世界を

作り上げます。なぜなら、ときに私たちは失敗し、その理由すら自分で分からないという

冷たく恐ろしい真実に向き合うのが、あまりにも辛いからです。

よく考えてみれば、人類の歴史の大半、人間社会の大部分、そして私たちが属する共同体

の多くは、「共通の現実認識」を持つ人々が集まるように設計されてきました。

ですが、そこに「すべての人」が含まれているわけではありません。

私たちはルールを設け、境界線を引き、「善」と「悪」の線引きをします。この線を越え

た者は、「愛されるべき存在」でも「赦されるべき存在」でも「受け入れられるべき存在」

でもない。そのように定義するために、そのように行動するために、私たちはこのような

線引きをするのです。

そして誰かがその「線」を越えてしまった時、その人を愛することは、非常に難しいこと

です。

時には、その「線」を超えた人を愛することは、ほとんど不可能に思えるでしょう。

私たちは、相手を「加害者」として見た瞬間に、その人を「一人の人間」として見ること

ができなくなります。過ちを犯した者もまた、不完全で、恐れを抱え、苦しんでおり、あ

る意味では被害者であるかもしれない。そうした視点を持つことは、自分が被害者と感じ

ている時に容易なことではありません。

私たちは、自分たちの共同体、国、世界において「ここから先は許されない」という暗黙

の境界線を引き、その線を越えた者に対して、「もうこちらへ戻ることはできない」と決

めつけてしまいます。

そして、「その人自身」を、まるごと捨ててしまうのです。

そのようにして、その人の「人間」としての存在を、完全に否定してしまうのです。

けれども、私たちが信じている神様は、そのような線引きの先に、留まる方ではありませ

ん。主である神様は、誰よりも先に、その線を越えて来られる方だからです。

神様は、「もうこちらの領域には戻れない」と私たちが決めつけた人々に向かって、「戻っ

ておいで」と呼びかけられるお方です。

そして神様は、「戻っておいで」とだけ言われる方ではありません。「わたしが、あなた

を迎えに来たよ」とも言われるのです。

そうです。神様は、赦しをもって、私たちを包み込まれます。

神様は、私たちが恥ずかしくて二度と触れたくないような失敗の中にさえ、ご自身の愛を

もって入り込まれ、その愛の深さで、私たちを聖なる場所へと導いてくださいます。

3 of 7

神様は、あなたが犯した最も醜い罪、誰にも見せたくない姿、そして自分自身でさえ向き

合いたくない過去の現実にまっすぐ向き合い、そこであなたを待っておられます。

そしてあなたがそこに行く時、あなたにこう言われます。

「これが、あなたの物語の終わりではないよ。」

神様は、あなたが自分で消し去ろうとした記憶、自分の人生から切り離そうとしてきた失

敗、誰にも話したことのない傷、心の中で何度も何度も否定してきた過去の出来事を

すべてご存知です。

そしてそれらを無理に「美しいもの」に変えようとはなさいません。

代わりに、神様はこう言われます。

「わたしは、あなたがその苦しみのただ中にいるとき、あなたを一人ぼっちにはさせな

かったよ。あなたが隠れた場所で泣いていたとき、わたしもそこにいたよ。あなたが『も

う終わりだ』と思ったその瞬間にも、わたしはあなたのそばにいたよ。」

私たちはしばしば、「癒し」とは「痛みを忘れること」だと思っていないでしょうか?

けれども神の癒しとは、「痛みをなくすこと」ではなく、その痛みの記憶の中に、神のご

臨在が刻むことなのです。

そのとき私たちは、こう言えるようになります。

「確かに私は傷ついた。けれども、神様はその場にいてくださった。」

「確かに私は倒れた。けれども、神様はそこで私を支えてくださった。」

神様の癒しとは、過去の出来事の「意味」が塗り替えられることです。

それは、過去が変わるのではなく、「過去と共にある今」が変えられるということです。

神様の愛は、私たちを変えます。神様の愛は、ただ優しく慰めてくれる愛ではありませ

ん。それは、私たちの心の奥底にまで入り込み、自分でも見たくなかった部分に光を当

て、「ここにもわたし(神様)の愛は届く」と告げる、変革の愛です。

神様の愛は、私たちの傷を見て、こう言われます。

「この傷こそが、あなたの使命への入口になるよ。」

4 of 7

神様は、私たちの痛みを用いて、他の誰かの痛みに寄り添う力へと変えてくださいます。

だからこそ、私たちは、私たちを傷つける人々を赦すことができるのです。

赦すとは、「忘れる」ことではありません。

赦すとは、「もうこの痛みの奴隷にはならない」と決意することです。「この傷を、神の

光の中に置く」と選び取ることです。そして、「この傷さえも、神様が用いられる」と信

じることです。

時に赦しは、遠くにいる誰かのためではなく、いちばん近くにいる自分自身のために必要

なことです。

神様の愛は、あなたが自分自身を赦すよう招いておられます。なぜなら、神ご自身が、す

でにあなたを赦しておられるからです。

神様は、ストーリーテラーです。それも、ただの語り手ではありません。

なぜなら神様は、「物語を書き直す方」だからです。

私たちが「ここで終わった」と思った時、そのような人生の局面にある時、

神様は「ここから始まる」と書き直してくださいます。

私たちが「壊れてしまった」と思った出来事を、神様は「砕かれた心から、真の愛があふ

れ出る場」と変えてくださいます。

神様は、誰も拾おうとしなかった断片を集め、それらをつなぎ合わせ、前よりも美しく、

深く、力強い物語として編み直してくださるのです。

ですから、あなたの物語も、まだ終わってはいません。

たとえ他の誰かがあなたに、あなたのしたことは「もう取り返しがつかない」と言ったと

しても、あなた自身が「もう希望はない」と感じていたとしても、神様は今日も、あなた

の人生を書き加え続けておられます。

神様は、あなたの苦しみのページにも、あなたの失敗の章にも、そして、あなたが閉じよ

うとしたその物語の最後のページにさえも、

新しい命と回復のことばを記されるお方です。

それが神様のあなたに対する愛です。

5 of 7

ご存じの通り、「愛する」ということは、ただ他者を思いやることだけを意味するのでは

ありません。自分自身の弱さや傷つきやすさをさらけ出すことでもあるのです。

愛するとは、自らの壊れた部分を受け入れ、それに正面から向き合い、共に立ち上がり合

う努力をすること。コミュニティの中で支え合いながら、その道を歩むことなのです。

私たちは、律法に従い、規則を守り、立派な姿を取り繕うことができます。

世界中の人々に「私は大丈夫、神の祝福の中で最高の人生を歩んでいます」と納得させる

こともできるかもしれません。

しかし、私たちが周囲の人々や社会に与える影響を、誤魔化すことはできません。

その一方で、見た目や話し方、服装、周囲との付き合い方、あるいはただ「なんとなく」

周囲になじめないという理由で、恐れられたり、避けられたりする人がいます。けれども

そのような人々が、静かに、黙々と、愛のわざを重ね、何度も何度も赦しを与え、心をさ

らけ出してなお「それが社会的に受け入れられるか」などと気にせず、愛し続けている姿

があリます。

これこそが逆説です。

人を本当に愛するということは、そのことにより世間体を失うことでもあります。

愛するという行為が、時として私たちを「罪人」のように見せる。

愛を示すことそのものが、「規則違反」のように見なされるのです。

愛を示すことは、「越えてはならない一線」を越えること。

つまり、「逸脱すること」なのです。

キリスト者であるとは、愛を実践しながらも、それによって救われるわけでも、守られる

わけでもなく、私たちが愛することを選ぶからといって世界が私たちを愛してくれるよう

になる保証もないという、この逆説を理解しながら歩むことです。

キリストのように愛するとき、私たちは損をする立場になります。無視され、軽んじら

れ、利用される立場になるのです。それでも安全を選ぶのではなく、むしろ傷つきられな

がら、誰かに罪をなすりつけたくなるその瞬間に、自らが標的になる道を選ぶのです。

キリストの愛に倣うということは、容易ではありません。

それは深い脆さと覚悟を伴います。

6 of 7

公に立ち、「この壊れた、欠けだらけの、社会的な常識を越えてきたこの人も、愛される

に値する」と語り、そしてその人のそばに立ち、「私も壊れている」と告白する勇気を必

要とするのです。

私は完璧な人間では全くありません。

説教壇に立ち、学位を持ち、按手を受け、社会的には「ふさわしい」と見なされているか

もしれません。しかし、私は他の誰とも変わらず、欠陥のある人間なのです。

私は不完全で、社会的には「好ましくない」面を持ち、大声で、うるさくて、生意気で、

扱いづらい存在です。話しすぎて、人の声を十分に聴けないこともあります。

人を傷つけ、失敗したことも数え切れません。どれだけ愛と優しさを持ちたい、示したい

と願っても、現実には失敗と成功が半々です。

それでも……

それでも神様は、私を愛してくださっています。

なぜかは分かりません。けれど、分かる必要もありません。ただそれが「真実」であると

いうだけで、私には十分なのです。私が何一つその資格がないにもかかわらず、神様は私

を愛してくださっているのです。

だからこそ私は、この場に立ち、毎週礼拝で声がかれるまで語り続けるのです。

神学校に入るずっと前から、按手を受けるずっと前から、

あの湖畔の小さなチャペルに数人が集まり「愛する教会とは何か」を模索し始めた、あの

時からずっと、

私はこのことを言いたかったのです。

もう、完璧であろうとしなくていい。

もう、世間体を保とうとしなくていい。

もう、「私は正しい、清く、問題のない人間です」と世界に証明しようとしなくていい。

もう、受け入れられるために、嘘をついたり、誰かを傷つけたり、無理をしたりする必要

はなく、自分の中の、見せたくない一番ひどい部分を隠す必要もない。

あなたがたは神様の招きを受け入れたのです。

私もです。

私たち皆がそうです。

だから私はあなたを赦します。

神様もあなたを赦しておられます──一切の条件なしに。

7 of 7

だから、戻ってきてください。

愛を抱きしめてください。

共に築き、共に働き、誰も排除されず、すべての人が赦される世界を共につくりましょ

う。

なぜなら、本当に愛されるためには、本当の意味で傷つきやすい存在になる必要があるか

らです。そして本当に他者を愛するためには、まず自分自身が、ありのままの姿で、愛さ

れることを受け入れなければならないからです──自分の中にある欠点も、過ちも、その

ままで。

 
 
 

Comments


bottom of page