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Rev. Don Van Antwerpen

説教「サタンの快適な押入れ」

2023年9月03日(日)午前10時30分

ヴァンアントワペン ドン 牧師


皆さん、神様の召命を果たすということ以外で、私がこの仕事でおもしろさを感じていることは何だと思いますか。その一つは、聖書の中でもあまり知られていない、奇妙で少し変わった話や聖書箇所に偶発的に出会うことです。


 たとえば、イエスがゲツセマネの園で逮捕される時、腰巻き一枚しか着ていない若者がローマの兵士によって素っ裸にされ、生まれたままの姿で逃げて行くというシーンに出会ったり、使徒パウロが説教をしていた時に、その説教が長く退屈すぎて、聞いていた若者が居眠りして、座っていた窓辺から三階下へ落ちて死んでしまったという出来事を読んだりすることです。そうです、パウロの説教は退屈すぎて人を殺してしまうほどだったのです!

そして、私のお気に入りの話は、頭の禿げた預言者エリシャが、自分をからかっていた子どもたちに腹を立て、神に願い出て熊を呼び寄せ、その子たちを襲わせるという話です。どれも本当の、事実の話です! これらはすべて聖書に書かれていることですから、信じられなければ、マルコによる福音書14章、使徒の働き20章、列王記下2章を読んでください。


 しかし、聖書は奇妙で驚きに満ちた、そして時には笑えるような話がたくさんある一方で、全く逆の話も多々あります。今日の箇所はまさにそんな話です。正直に言うと、今日の話は、福音書の物語に埋もれてしまうような内容の話かもしれません。イエスが弟子たちに、これから自分は十字架へ向かって行くのだということを単純に説明しています。そして、良い教師なら誰でもするように、弟子達の反対意見を受け止め、そこから教訓を示し、最終的に26節の有名な言葉で締めくくります。


「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら何の得があろうか。」


 英語の新欽定訳聖書では、もっと詩的に表現されています。「人が全世界を得ることは、自分の魂を失うに足るものではない。」

これは、権威がある賢い諺として使えるかもしれません。律法主義的な人が嫌味をこめて選ぶクリスマスカードにでも書かれている言葉のようにも聞こえます。また、文脈から離れるなら、これは、自分が気に入らないことに対する非難のために投げかけることができるようなものかもしれませんが、イエス・キリスト自身の言葉ですから、もちろんちゃんと意味と権威が込められています。

この言葉は、聖書の厳しい箇所の中でも、最も厳しい節です。ですから、人に対して使う時は、この節は最もストレートに攻撃的な節にもなり得ます。新約聖書全体でイエスが述べた中で最も非難的で、最も容赦のない節であることに驚かされるでしょう。


たった3つ前の節の23節で、イエスに迫り来る暴力的な運命の予兆に際し、ペテロはなかなか合理的な異議を述べましたが、イエスはペテロに向かって、「サタン!」と呼んだのです。


 おそらく皆さんはこの言葉を何度か聞いたことがあるでしょう。26節よりももっと有名かもしれません。(実際、私たちのYouTubeシリーズの一つにその言葉を使っています。)

 しかし、この節を知っている人々の中にも、その本当の出所を知っている人は多くありません。実際、ほとんどの人は、これが第4章から来た内容だと思っています。

そこには「ハ・サタン」(非難をする神の検察官としての役割を果たす存在)がイエスを高い山に連れて行き、世界のすべての国々の支配権を得る代わりに自分を崇拝してほしいと提案したという話が書かれていますが、その話と結びつけると思います。もちろん、そこから引用されたものだと考えることは理にかなっているでしょう。あのような非難、イエス・キリストの口からの攻撃的な言葉を誰に向けるべきか、それはこのサタンに向けられるべきだと考えるのは当然かと思います。


しかし、違います。それはペテロに向けられているのです。

ペテロ、岩、初代教皇であり、イエスの最も親しい友人。この「サタン」という表現が、まさしくこのペテロに向けられたのです。


 ここで、「サタン」が実際にどんな存在なのかを知らない人々に、少し説明する必要があるかと思います。現代の人が考えるサタンは、主に「神曲」を書いたダンテ・アリギエーリの作品に基づいているのですが、私たちが聖書で扱っているのは、ほぼ完全に作り上げられたものです。ここでイエスがペテロに向けて投げかけた言葉は「Σατανᾶς(サタナス)」という言葉で、広義の意味を持つ言葉であり、必ずしも常に固有名詞ではありません。それが固有名詞として使用される場合、通常は先ほど言及した堕落した天使を指します。この天使は神の使者であり、神の代理として誘惑と試練を与えることが彼の任務であり、神の特別な関心や必要性を持つ者たちを訓練する手段として現れるものです。

 しかし、ここでイエスがその言葉をどのように使っているのかは明確ではありません。むしろ、ペテロがその瞬間にどのように振る舞っているかを説明する言葉として使用されている可能性が高いのです。ペテロは「誘惑そのもの」として振る舞っているのです。そして、誘惑を危険なものにするのは、それが、わかりやすさと単純性を持っているからです。また、理にもかなっていて、快適さをもたらすものであることです。誘惑とは、ただ魅力的なだけでなく、論理的に正当化されてしまうものなのです。


初めに言ったように、ペテロは「イエスに対する合理的な異議を述べました」が、それはまさに非常にスムーズでシンプルで、さっと読むと、見逃す可能性があるような言葉です。ペテロがイエスに対して提案したことは、「ただこれまでやってきたことを続けたらいい」と誘惑するものだったのです。


この段階でイエスは、今までのような抵抗の教えや説教、テーブルをひっくり返すというような行為、一対一の奇跡的な癒しといった弟子たちに力を与えるためにしてきた地上の使命から、今度は「自己犠牲」という究極的な目標に移っているのです。この目標は、世界の壊れた部分を究極的に修復するためのもので、それを達成できるのはイエスだけです。


キリストはこの時点で、弟子たちと約3年以上伝道をしてきており、間違いなく実りある働きを結んでいました。説教、教え、食物を増やすこと、癒し、そして死者の復活などがありました。彼らは地域を巡回しながら、おそらく「ケオティック・グッド(混乱の中の善)」と表現されるであろう堅固な評判を築いてきました。彼らは(まだ)法律を破ってはいませんが、抑圧に反対する発言をためらわずに行ってきました。シャンマイ派のファリサイ派の支配者層を激怒させましたが、その権力を直接的に脅かすことは(まだ)ありませんでした。


 そして、「メシア」のテーマが出て来る度に、イエスははっきり答えることを避け、身をかわしていました。以前にも述べたように、イエスが自分のメシアであることを宣言すると、ローマ人との完全な戦争になることを弟子たちも知っていました。また、ローマ人は反乱と見なされる可能性のある者に対して非常に残酷な手段を取ることも知っていました。

ですから、ペテロが異議を唱えた理由は、イエスのグループが過去3年間、伝道し、教え、地域全体で奉仕することを可能にしたのは、「曖昧さが持つ快適さ」という、はっきりしない神学的アイデンティティの不明瞭な部分のおかげだったからです。しかし、それがもうすぐ、突然痛みを伴う、暴力的な終わりを迎えることになるということをイエスは言われたのです。


ペテロは、実際にイエスがメシアになって出て行くことにメリットがないと思っていたのです。「イエス様、もしあなたが自己犠牲のメシアになるかどうかなんて考えをもう一度落ち着いて考え直すなら、世界はみんなにとって良い場所のままになるんですよ!」と言いたかったのです。イエスが神によって用意されたメシアではなく、このままの姿でい続けるためには、イエスは変わってはいけないとペテロは考えたのです。「イエス様がただじっと、押入れに戻ってくれさえすれば、みんながよく知っている先生として、快適なままでいられるだろう。今まで見えなかった救世主を知る努力なんてする必要もない。(その代わり、世界はイエスが真に誰であるかを見る必要もなくなるが・・・)」


少し先を読みますが、イエスの声に静かな懇願が込められているのが聞こえるでしょうか?ペテロが実際に何を求めているのかを知り、最も強い叱責と教えをこめて、イエスが立ち止まって語りかける声です。


「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら何の得があろうか。。。」

 

ちなみに、ここで私たちが「魂」と訳している言葉は、「命」としてNRSVUE訳が訳している言葉です。この言葉はギリシャ語の「ψυχή(プシュケー)」から来ており、英語と同じ意味です。古代の人々は、生命の息吹、私たちの体を生き生きとさせる力、私たちの心や意識である電気エネルギー、私たちが今日「魂」と呼ぶものと似ています。古代ギリシャ人にとって、これらはすべて同じものでした。生きている、呼吸している、神性の本質、人であることの本質でした。


「人が全世界を手に入れても、自分の命、アイデンティティ・人間性を失うとしたら、 そこに何の得があろう。」


 次の2つの節でも、イエスが栄光のうちにやって来る人の子だということについて語られています。良い先生としてのイエスや癒しをもたらす奇跡の働き手ではなく、私たちすべてを神につなげるために送られた世界の救い主であるイエスとしてです。

これは、文脈を無視して読む人々にとっては、将来の終末を予測しているように聞こえるかもしれませんが、文脈をちゃんと捉えるのならば、イエスは「あなたが私に建てたこの快適な箱の中に、私はとどまっていることができるだろうか? 私は、神が私に望まれている者にならなければならないのだ」とおっしゃっているのです。


 ここで、キリストの唇から語られる言葉が聞こえます。それは、砂漠で創造主がモーセに伝えたのと同じ啓示です。「私はあってあるものである。私はなるべきものとなる。」


 人生は確かに変化の連続です。神は光と闇を創造しましたが、これらのものは、永遠に変わらないままでいられるわけではありません。お互いに混ざり合い、日の出の圧倒的な輝きと夕焼けの涼しい安息の両方を持ちます。神の創造は、進化、成長、変化の無限のダンスの中で美を爆発させています。私たちにとって最大の誘惑とは、暗闇の中で快適になってしまい、日の出を拒否することです。

 これこそが、私たちがキリストから呼び出されている理由です。私たちは、自分自身を否定するよう求められています。それは、心の欲望を否定するためでも、神が私たちに点火したアイデンティティを否定するためでもありません。また、自分たちを包み込む正義の流れを否定するためでもありません。かえって私たちは、快適さ、安定感、安全性への欲望を否定するよう求められているのです。変化に伴う恐怖に直面することを求められているのです。


そして、暗闇に快適にとどまる誘惑を否定するよう求められています。それは、私たちが今やっている正当化されるような小さな行いに留まる誘惑です。私たちは、挑戦されていない快適さを否定するよう求められています。新しい命の波に続く成長と変化のすべての機会を放棄する誘惑を否定するよう求められています。そして私たちは、このままで安全だと言われている恐怖を否定するように求められています。神が私たちに意図した完全さを不完全なものとするような場所に留まる誘惑を避けるように求められているのです。


 しかし、誘惑を拒否する選択をすることは、イエスに従うことを意味します。手に十字架を持ち、その孤独な丘に向かうことです。人間関係が緊張したり壊れたりするかもしれません。苦しみが本当に痛みとなり、実現しないはずだと思っていたことが実現するかもしれません。


 ここでもイエスの言葉を思い出してください。彼はギリシャ語で「命」という言葉が理解されるさまざまな道を非常によく知っていました。彼は言いました、「自分の命を救おうとする人はそれを失い、私のために自分の命を失う者はそれを見つけるであろう。」


 ただ生活を守りたがる者、つまり、安定感と安全性を守り、神の願いから離れ、なるべき姿のごく一部にしかならない誘惑の中で安全にいたいと思う者は、まさにそれを失うことになるでしょう。しかし、キリストのためにその人生を犠牲にする者は、そのアイデンティティの豊かさを栄光として輝かせることでしょう。


 これこそが私たちがキリストにあって受け入れるべき真実なのです。「復活の人々」である私たちは変化と共に訪れる損失を受け入れることができるのです。なぜなら、死さえも終わりではないからです。私たちは誇りを持って十字架に向かいます。神のために捧げるものが、今日は私たちを苦しませるかもしれませんが、明日は復活の日です。

私たちは喜んで、持っていた命を失い、変化の辱めを幸せとして受け入れることができるのです。なぜなら、明日の朝になれば、日の出と共に私たちは輝かしく新たな存在として復活することを知っているからです。


それが、愛され、二つとなく、創造主の神に祝福された子どもたちの姿なのです。




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