「あなたたちの番」
- Rev. Don Van Antwerpen
- 14 hours ago
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2026年4月5日 イースター礼拝
Unfinished Community教会
ヴァンアントワぺン 亜希子先生

イースターは喜びの時です。新しさを受け入れ、新しいいのちがもたらされることを祝う日です。 復活。
しかし実のところ、私たちの多くは「復活」とは何かを本当の意味ではよく分かっていません。私たちはそれを「再生」と同じものだと思ってしまいがちです。まるで擦り切れた靴を修理したり、古いソファを張り替えたりするように、古いものを修復し、壊れた部分を繕い、以前よりも良くなった姿として再び世に送り出す――それが再生です。
しかし復活は、壊れたものの修復を意味するのではありません。死んだものが、まったく新しいいのちへとよみがえることです。どれほど繕いや修復を重ねても決して成し得なかったかたちで、その本来の目的を果たすことを可能にするものです。
復活とは、まったく新しい創造です。不完全であったものが、完全なかたちへと変えられるのです。
イエス様が十字架にかかられ、よみがえられたことによって開かれた、この「死からいのちへ」の道は、ときに「地獄」のような苦しみを伴います。
私たちは人生の中で非常に辛く、苦しいことに直面すると、自分自身に問題があるのではないか、人との関係に問題があるのではないか、あるいは自分の人生そのものに欠陥があるのではないか、と感じてしまいます。もしそうでないのなら、どうしてこれほどまでに苦しむのだろう、と。
そのようなとき、私たちは失望や無力感、絶望の中へと沈み込んでしまいがちです。自分や自分の人生に、もはや救いは残されていないのではないかと思い始め、ついにはすべてを捨て去り、まったく新しくやり直すしかない、と考えてしまうこともあります。
しかし、それは神様のなさり方ではありません。
神様は、壊れた私たちを見捨てるお方ではなく、またそれを単に繕い、きれいに整えて元に戻すお方でもありません。
私たちの神様は、よみがえらせてくださるお方です。
私たちの救い主イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり、死なれました。想像を絶する苦しみを受け、極めて残酷なかたちで公の場において処刑され、三日間、墓の中に横たえられました。
そのすべてを経て、神様の呼びかけによって目を覚まされたとき、イエス様はどれほど疲れ果てておられたことでしょう。自分を死に追いやった人々のもとへ、再び戻っていこうとする者が、果たして私たちの中にいるでしょうか。
壊れやすく、罪深く、限界のある私たち人間には、そのような苦しみの世界へ再び戻ることを想像することさえ難しいのです。なぜ再び戻る必要があるのか、と。
その問いを考えるとき、私はヨハネの福音書11章に記されているラザロの復活を思い起こします。この出来事は、単にイエス様がラザロを死からよみがえらせたという話ではありません。イエス様が「出てきなさい」と呼びかけられたとき、ラザロが手足を布で巻かれ、顔も覆われたまま、それでも外へ出てきた――その応答こそが、この物語の大切な一部なのです。
私たちは復活を、イエス様に起こった奇跡、あるいはラザロに起こった奇跡として捉えがちです。しかし、その奇跡は「呼びかけ」にあるのではなく、「応答」にこそあるのではないでしょうか。
よみがえられたイエス様は、十字架によって打ち砕かれたままではおられませんでした。しかしその身には、苦しみの痕跡――脇腹の傷、手の釘の跡――が残されたままでした。何もなかったかのように消し去られたわけではありません。
それでもイエス様は、そのすべてを受け入れ、神様のご計画に応え続けることを選ばれました。痛みや苦しみにご自身の霊を支配させるのではなく、神様の呼びかけに応え、打ち砕かれた者としてではなく、壊れたものを癒し、回復する者としてよみがえられたのです。
私たちはしばしば、復活が自分に訪れることを願い、誰かが自分の打ち砕かれた魂をよみがえらせてくれることを願い、いのちや光、喜びが自分の暗い墓の中に差し込むことを求め続けます。
しかし、そのように願い続けるあまり、私たち自身が召しを与えられていること、そしてその召しに応えるという選びが与えられていることを、見失ってしまうのです。
新しく造り変えられたものとして立ち上がること。タンバリンを手に取り、喜び踊る者たちとともに歩み出ること。壊れたものが回復され、本来あるべき姿――神様によって造られた姿として生きること。
あるいは、自ら転がそうともしなかった墓の石の向こうから光が差し込むのを待ちながら、沈黙し続けることもできるでしょう。
イエス様は私たちの模範であり、救い主です。すべての痛みと苦しみをその身に受け、私たちの手によって苦しめられ、死なれました。しかし再び戻って来られ、傷ついた手で塵を払い、傷だらけの足で立ち上がり、私たちにこう語られるのです。
「さあ、今度はあなたの番です。」
愛する皆さん、これこそがイースターの招きです。墓の絶望や無力さに屈することを拒み、創造主の愛の呼びかけに応えて立ち上がること。
それは、打ち砕かれ、押しつぶされ、疲れ果てたままの姿ではありません。傷を負いながらもそこから学び、それを越えて成長し、弱さや痛みを通して変えられ、愛を携えてこの世界へ踏み出す者として立ち上がることです。
「出てきなさい。もう一度やり直しなさい。立ち上がって、あなたが蒔いた種の実りを味わいなさい。」
「あなたにはできる。わたしは永遠の愛をもってあなたを愛している。」
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。――その先までも。」

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