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「まずは私が」

Rev. Don Van Antwerpen

2/23/2025

Unfinished Community教会

ヴァンアントワペン 亜希子牧師


祈りましょう。主よ、どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、わたしたち心の思いが御前に置かれますように。主よ、あなたはわたしたちの岩、わたしたちの贖い主です。あなたの御言葉は、わたしたちの道の光、わたしたちの歩みを照らす灯です。どうぞお話しください。しもべは聞いております。アーメン。

 

明日2月24日で、ロシアによるウクライナ侵攻から3年が経ちます。日本は難民を受け入れることにとても消極的な国ですが、この侵攻が始まったとき、日本は直ちにウクライナからの難民受け入れの門戸を開きました。統計によれば今年1月の時点で、1,982人のウクライナ人が祖国から日本に逃れてきています。そしてこの1,982人のうち106人がここ兵庫県に住んでおり、日本の中ではウクライナ難民の人口が6番目に多い県となっています。

 

私たちの教会は小さな教会ではありますが、1年ほど前からウクライナからの難民家族を支援しています。今日の礼拝の後、そのご家族の支援の一環としてバザーを行います。ウクライナ料理が振る舞われたり、お花の販売などがあります。礼拝の後も残って、どうぞ支援にご協力ください。

 

しかし、1,982人が戦争から 逃げ出し、はるばる日本までたどり着いたにもかかわらず、爆弾が落ちる音、鳴り響くサイレンの悲鳴、絶え間なく続く恐怖から解放されたにもかかわらず、難民の方々が平和を享受しているわけではありません。自分たちは戦火を逃れたとしても、まだ死の恐怖と向かい合う家族がウクライナに残っている、あるいは、すでに戦争で家族を亡くした難民の方々もいるのです。

 

戦争から逃れたからといって、戦争自体や戦争の悪影響から逃れたわけでも、平和が訪れたわけでもないのです。

 

さらに悲劇的なことに、今世界で起きている戦争はこの戦争だけではありませんし、この戦争が一番最近のものでもないことです。たとえば、イスラエルとパレスチナの紛争、特にガザをめぐる紛争が悪化の一路を辿っているのは記憶に新しいことでしょう。私は世界の情勢にそこまで強くないので、今もなお世界でどれだけの戦争や紛争が続いているのかをオンラインで調べてみました。すると恐ろしいことに21世紀のこの時代においてまだ50以上の戦争、紛争があることがわかりました。それだけでなく、その中には数十年、あるいはそれ以上続いている戦争や紛争もあることがわかりました。なんということでしょう。

 

そんなことを考えていた先週金曜日、私は家で汚れた食器の皿洗いをしていました。今日の平和を考える礼拝のため、礼拝に使う予定にしていた「Let There Be Peace on Earth」(世界に平和があるように)を聞きながら皿の汚れを一生懸命ゴシゴシ洗っていました。私は曲を聴きながら、歌詞を口ずさんでいました。

 

“Let there be peace on earth, and let it begin with me. Let there be peace on earth, the peace that was meant to be.” (「この世界に平和があるように。まず私から始めよう。この世界に平和があるように。まず私から。」)

 

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

(創世記1:1-3 

 

これは聖書に出てくる天地創造のお話しです。神様がこの地に光があるようにと言われると、光が造られました。神様がこの地に大空があるようにと言われると、大空ができました。神様がこの地に乾いた所があるようにと言うと、乾いたところが現れました。

 

神様がこの地にあるようにと言うと、ほらみたことか!神様が望んだものがそこに造られたのです。

 

そんな風に平和は現れるのだろうか?天地創造の話のように。神様が一声あげれば、その瞬間にその場所に平和がもたらされるのか?いやそんなことはない。そんな思いが私の頭の中を駆け巡っていました。なぜなら私たちは神様ではないのだから。私たち人間には、神様が光を、大空を、地の乾いた所を実現したように、平和を実現することはできないのだから。

 

平和は私たちが実現しなければいけないもの。何故なら、私たちは神様が実現するようには何事も実現することができないのだから。

 

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

(マタイによる福音書5:9)

 

イエス様は2000年以上前に、山上の説教と言われる有名なスピーチの中で、平和についてそのように語りました。平和を実現する人々は幸いである。なぜなら、平和は創り、実現に向けて働かなければならないものであり、魔法のように瞬間的に現れるものではないからです。平和は自動的に与えられるものではなく、私たち人間によってつくり出され、実現されるものだからです。

 

つまり今していることを続けているだけでは、平和は実現されないということです。今の日常を続けるならば、平和はやってこないのです。

 

私たちの多くの日常はこういう感じかと思います。朝起きて、学校に行き、仕事に行き、あるいは子供の面倒を見る、親の介護をする、家の家事をする。昼食を食べ、宿題をし、家事をし、夕食を食べ、シャワーを浴び、家族と団らんし、寝る。このような日常生活の中で、私たちは家族、教師、友人、同僚、上司、レストランの従業員、その他のサービス業従事者など、色々な人々と関わりを持ちます。意図的であろうとなかろうと、私たちはたいてい自分と考え方が似ている人、価値観が似ている人、自分と好き嫌いが似ている人と一緒にいる傾向があるわけです。自分を尊重してくれる人、自分のことをよく知っている人、一緒にいて心地よいと感じる人たちと時間を過ごす。これは普通のことで、私たちが考えずにしていることでしょう。

 

それの何がおかしいのでしょう?私たちがこのように、普通に生活を送る中で誰かを傷つけているわけでもないでしょう?誰かの命を殺めているわけでも、傷つけているわけでもありません。戦争が起こっているのは理解しています。けれど戦争は国の指導者たちが始めたこと。権力のある人々がこのような破壊的な、悲惨な、恐ろしい決定を下した。もちろん私がそうしたのではない。

 

私たちは爆弾を落とす者でもなければ、破壊を導いた者でもない。もしかしたらあなたはそう考えるかもしれません。

 

しかし、今日の聖書箇所を読む時に、私はこう思わずにはいられません。「でも、イエス様は私たちにこう言うかもしれない。」

 

「しかし、あなた方は平和をつくり出ししているか?平和を実現しているのか?」」と。 

 

もし、平和の実現を、危害を加えないこととだけ定義しているのなら、それ故平和をつくることを他人の問題や他の人の責任に委ねているのなら、それは自ら危害を作り出しているのと同じこと。

 

それは平和の実現とはほど遠いこと。

 

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。(ルカによる福音書6:32-34)     

 

戦争を起こし、平和を破壊し、他者に危害と破滅をもたらす者たちは、私たちと同じように暮らしています。私たちと同じように、自分と似た考えを持ち、自分と同じような価値観を共有し、自分たちと同じような好き嫌いを持つ人々と時間を過ごしているのです。そう、自分がいて心地よい、自分を肯定してくれる人たちと時間を過ごすしているのです。

 

私たちがそうであるように。

 

もしあなたが、自分のことを好いてくれる人たち、自分が好きな人たちとしか付き合うだけで、自分の考え方や生き方に疑問を投じたり、私たちに不快感を与えたり、あるいは理解するのに努力や忍耐、赦しが必要な人たちと関わり合いを持たないのであれば、決して平和を実現することはできません。平和をつくるか、それとも平和を壊すかの違いはあなた自身の日々の振る舞いです。自分自身のニーズや、欲望に目を向けるのではなく、日常の生き方に疑問を投じ、自分が好きな人、愛せる人を愛するのと同じように、自分が好きではない人、愛せないと思う人を愛そうとする困難な生き方を選ぶか、選ばないかの違いなのです。

 

分かっています。私が言っていることは耳が痛いことを。私は誰も傷つけていない!私は善い人間であるために日々ベストを尽くしている。なぜこんなことを私が言われなければいけないのか?なぜ積極的に悪事を働いている人たちが責められないのか?悪人が変わらなければいけないのに!私が戦争を起こしたわけではないのに!」

 

イエス様は、自身の話が、神様が人々に求めていることが簡単ではないことをもちろん知っていました。敵を愛すという究極の愛のメッセージを行動に移すということががどれほど難しいものであるかを知っていました。自分と似ている人達や仲間と関係を深めるだけでは充分ではないのです。自分とは全く違う、理解に苦しむ、自分が関わりたくない人々との関わりや交わりを続けることで平和を実現する人になる。そのようなことがどれほど難しいかをもちろん知っていました。全ての人が、ある意味究極的とも言える生き方に耳を傾け、平和への道を創っていくわけではないことをイエス様は知っていたのです。

 

今日の聖書箇所で、イエス様はこう語り始めます。

 

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」(ルカによる福音書6:27)

 

 

もしあなたが、話を聞く気があるのなら、耳のあるものなら、幸いな者として平和を実現する働きに加わるという風に少しでも思うのであれば、どうしたら平和を実現するという崇高な目標を自分のようなものができるのかと少しでも思うのであれば、それは幸いなこと。

 

どうぞ。ここから始めなさい。イエス様は今日の聖書箇所を通してそう私たちに語りかけます。

 

しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。(ルカによる福音書6:27-30)

 

イエス様がここで言っていることは、私のように日本で生まれ育ち、現在も日本に住んでいる人にはピンとこないかもしれません。日本は礼儀正しさや、争いを避けることを美徳としており、少なくとも人前では人を罵ったりはしないことが普通ですし、近年はそうでなくなってきているかもしれませんが、暴力を目にしたり、たとえ暴力が起こったとしても銃撃戦になることはないわけです。ですので戦争や虐殺、爆撃などあからさまな憎悪を伴う敵への攻撃を想像するのは難しいことかもしれません。

 

しかし、憎悪や悪事がまったく目に見えなかったとしても、爆弾のように露骨なものでなかったとしても、イエス様が私たちに語りかける教えは同じなのです。

 

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。(ルカによる福音書6:27-29)

 

イエス様が何を言おうとされているのかが分かりますか?

 

平和を実現するということに関しては、私たちはもっと行動することが必要。例え相手が、周りの人々がそうしていなくても、あなたに限っては違う生き方を選びなさい。敵を憎むのではなく、愛しなさい。例えばあなたが置かれている場所が平和に見えるようであったとしても、目を凝らし、耳を傾け、平和のないところに平和を創りなさい。

 

人と違う生き方を選び、違う優先順位を持ち、平和の実現という崇高な目標を持ち、その実現のために行動しなさい。今までの生き方、人生における優先順位を見直し、隣人を、敵をも愛するという普通とはかけ離れた、神様が愛するように人々を愛せるように生きなさい。

 

あなたの友人や家族は、あなたにひどい仕打ちをしたり、あなたを怒らせたり、あなたをストレスに陥れる人を無視しなさい、関わらないようにしなさいと言うかもしれません。あるいは、自分を傷つけた者に仕返しをしなさい。自分を不当に扱った者に正当な罰を、復讐しなさいと言うかもしれません。

 

でもそれはイエス様が私たちに語っていることではないのです。そうではありません。イエス様が言っていることはこうです。

 

人と違う考え方を、振る舞いを、生き方を選びなさい。

 

ただ親切にするだけでは充分ではないのです。

 

そうではなく、平和をつくり、実現する者となりなさい。

 

もし私たちの世界にいる人が全て、暴力には暴力で、悪には悪で、無礼には無礼で、憎悪では憎悪で報いるなら、無関心には無関心で応えているのであれば平和は永遠にやってきません。もし私たちが皆、ただ自分達の生活が「平和」のように思えるから、自分達は安全で、脅威や恐怖の中にはいないから、遠い海外の地で起きている戦争に関しては1日でも戦争が早く終わり、日本のように、私が今いる場所のような平和がその地にも来るようにとただ祈っているだけなのであれば、何も変わることはないでしょう。誰かが、あなたがそのことに自問し、違う生き方を選ばない限りは。

 

今とは違う生き方を選びなさい。

 

でも私は、イエス様の今日の言葉を思うときに、それではまだ足りないと感じます。イエス様は単に行動を起こしなさい、変わりなさいと言っているだけではないような気がするのです。平和をつくろうとする群衆に加わり、従う者ではなく、平和を創造するために、声をあげ、行動する最初の者になりなさいと言っている気がしてならないのです。

 

他の人たちが平和について語り始めるのを待つのではなく、真っ先に自分の中にある無関心を振り払いなさい。このウクライナの戦争は、あるいは他の地域で起こっている戦争が自分の生活に悪影響を及ぼしている者でもないから、今は傍観していよう。

 

違います。そうではありません。

 

テレビやインターネットでニュースを見ると、ポジティブなものは何もなく、絶望や悲しみが自分を襲う。その重圧に埋もれてしまいそう。どうしていいかわからない。

違います。ただ座ってテレビを見て、悲しんでいてはいけないのです。立ち上がりなさい!私たちのコミュニティには、戦争によって人生が一変してしまった人たちがおり、今も苦しんでいるのです。

 

立ち上がりなさい!自分は所詮一人の人間。私が立ち上がったところで、一体何が変わるのだろう?この果てしなく続く恐ろしい戦争の数々を止めるために私ができることはないという私たち誰もが抱く思いを振り払いなさい。もちろん、私たちの指一本で戦争を終わらせることはできません。けれど逃げ延びた人々の話に耳を傾けることはできます。苦しんでいる人々に、自分達の方から積極的に関わりどうしているか尋ねることはできます。今何を必要としているのかに耳を傾け、自分はそして教会の人々と協力して何ができるかを考え、行動してみることはできるのです。

 

立ち上がりなさい!自分の人生が改善するまで、状況が十分に安定するまで、助けることを先延ばししないでください。神様は決して、あなたが大切に思っている人たち、あなたの家族や友人をまずは優先し、困っている人たちよりもあなたが愛している人たちをまずは優先するようにとは言っておられないのです。

 

人とは違う風に生きることを選びなさい。一番に変わるものとなりなさい。たとえ周りの人たちがそのように生きることを選ばなかったとしても。人を見るのではなく、神様があなたに注ぐ愛を見て、神様が愛するように愛しなさい。

 

平和をつくり、実現する働きはあらゆるところにあります。立ち止まり、よく見てみてください。あなたの周りにその働きへの呼びかけがあります。家庭、職場、学校、そして教会。あなたが属しているグループや、コミティ。そのどこにおいても平和をつくり、実現する必要性が転がっています。

 

先週金曜日の夜、私は今日のバザーのことを、ウクライナ出身の私のママ友で、お姉さんのラナさんが2人の子供を連れて難民として来日したエレーナと電話で話していました。そこで彼女が、彼女のロシア人の友人が今日のバザーのためにピロシキをたくさん作ってくれるということを聞きました。戦争関係にある2つの国から来た二人は敵ではなく、友人であることを選びました。権力を行使しているリーダーたちとは違う行動を選んだのです。この日本、この芦屋という地で。

 

私も考えていました。ロシアの方々をお招きして今日のバザーに対する支援を得るのがいいのではと。しかし、ウクライナの方たちがそのことをどう思われるかわからなかったので、私はその考えを行動に移さないことにしたのです。しかし戦争を終わらせることが幸いではなく、平和を実現するものは幸いはと言ったイエス様の言葉にエレーナさんとその友人は従ったのです。お二人は自分の思い、自分の憂いを優先するのではなく、今日のバザールのために、困っている人々のためにと、人とは違うことを選びました。さらに強く愛すること、そして協力することを選んだのです。

 

数日前、私はウクライナの首都キエフ近郊にあるとある学校についての記事を目にしました。この戦争で、ロシア軍はこの学校のキャンパス全体を攻撃し破壊しました。さらに酷いことに生徒と教師の十数名はこの戦争で命を落としました。戦争で家族を失った者もいます。しかし、この学校の校長は、憎しみや絶望の中にとどまるのではなく、違う道を選びました。そして彼女はインタビューに答えてこう言ったのです。

 

 「ウクライナ人が殺され、打ちのめされており涙があふれてくる。平静ではいられないが、扉を閉めるわけにはいかない。」「あらゆる国の子供たちが友情を育めるよう全力を尽くさなければならない。未来をつくるのは子供たちだから。」

 

校長であるアントネンコ氏は、荒廃の中に生きながらも、生徒たちに自分たちとは異なる、外国の人々と話す手段の一つ、国が戦争下にありながら外国語の教育を取り入れることを選びましだ。これが彼女の平和創造、平和実現だからです。

 

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。(ルカによる福音書6:35)

 

イエス様が言った言葉「Instead」(代わりに)の意味を考えてみましょう。

 

イエス様が語りかける言葉はこうです。しかし、代わりに、違うことを選びなさい。しかし、代わりに愛することを選びなさい。

 

私たち一人ひとりの選択には意味があります。あなたがする選択が、あなたの周りの人々に影響を与えます。あなたがする選択が、あなたの周りの人々を変えることができるのです。

 

あなたの選択は世界を変えることにつながります。もしあなたが人と違うことを選び、まず行動することを選ぶなら、もしあなたが居心地の良さを手放して、困っている人々、弱い立場にある人々に手を差し伸べ、平和をつくることをまずはあなたから始めることを選ぶなら、私たちは変わります。私たちの教会は変わるでしょう。

 

このように私たち全員が一致して、一緒に行動すれば、世界も変えることができるはずなのです。

 

この地に、この世界に平和を。まずは私から。まずは私たちから始めましょう。アーメン。

 

 
 
 

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