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Rev. Don Van Antwerpen

「想像してごらんなさい」

Unfinished Community

2024年10月6日

創世記2:18-24 & マルコによる福音書10:2-16

牧師は日曜日の礼拝が終わると、また次週の説教の準備に取り掛かります。聖書日課(週ごとに読む聖書の箇所が示されているガイド)を確認し、どこの聖書箇所から来週の説教を作るように示されているか、祈りを持ちつつ熟慮します。しかし週によっては、牧師たちが説教をしたくない聖書箇所が当てがわれている週があります。


もしあなたが、正義や公正の実現のため、自身を奮い立たせる聖句や、神の愛が滲み出る聖句や、現代に数多く存在する異端に対し反論を唱えてくれる聖書箇所を探していたとしましょう。そのような聖句の代わりに、今日の聖書箇所の部分が説教箇所として与えられるとしたらどうでしょうか??


おそらく今日の聖書箇所を避けたいと思うのが普通だと思います。それは牧師だけではなくみなさんが思うことかもしれません。神が世界の始まりに男の性別をもったアダムの骨から女のエバ(女)を注意深く愛情を込めて造られたという話を私たちは何度聞いたことでしょう。「わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。」(創世記2:23)教会で育った方は男性は所有と支配をを通し、この世に生命を送り出すという特権・神様からの名誉を与えられているので、女性は男性に服従する立場にあるという風に教えられた方もおられるのではないでしょうか?


しかし、今日の創世記2章のお語を読んでみましょう。そこに書いてあることはこうです。神様は男性でも女性でもない、性別のない者に対し、すべての生き物を管理する役割を与えられます。そして、その人物からもう一人の者、その人物の助け人を造られたのです。


神様は文字通り、地上のあらゆるもの(あらゆる動物、あらゆる鳥、あらゆる生き物)を創造し、それらを最古の人間の前に連れてきます。しかし、その人物はそのどれにも満足することはなく、その人物に合う助ける者を探したのです。


ところで、科学の世界では現在、地球には870万から900万種の異なる生き物が存在すると推定されています。つまり、今日の話を文字通りに解釈すれば、世界最古の人間アダムは、神様がデザインした何百万もの特注ヘルパーを拒絶し続けたということにならないでしょうか?想像してみてください。宇宙万物の創造主が、あなたの友人でありヘルパーである生物を特別にカスタムデザインしようと全力を尽くしているのに、あなたはただそこに座って、神様が提案するものをすべてを拒否しているわけです。つまり神様からの贈り物を拒絶している訳です。 


神様が提案するアイディアを次々と拒否するアダム(ここでは性別が定められていない・神様が造られた最古の人間を意味しています)に対し、神様は何と傲慢な者だと、アダムを造ったことを後悔する可能性だってある訳です。しかし、神様はそうではなく、再び創造するのです。再び創造し、修正し、改良する。そしてそこから女性が造られます。


しかしあなたはこう思うかもしれません。けれど


「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(創世記2:23)


と書いてあるではないか?やはり女は男から造られたとあるではないか?と。


しかし、よくみてみて下さい。このセリフは神様が言ったものではありません。アダムが言ったことなのです。


ですから神様ではなく、アダムが最初から家父長制的だったというわけです。そのことはともかく、神様ご自身が女性を男性より劣った存在、弱い存在、従属的な存在だと聖書は伝えているでしょうか?


そのような解釈、つまり「女性は男性から造られたからより劣った被造物である」という考え方、そのようなことが書かれていない聖書箇所を女性軽視・蔑視の視点で読み解くことは今にはじまったことではありません。正直なところ、私たちの多くはそのことに疑問を抱いてすらいないかもしれません。長い間、私たちは何となく聖書を読み、あたかもすべての男尊女卑が聖書に書かれているかのように聖書を読んできたのではないでしょうか?


しかしそれは違います。もし人間の中で性別や他の理由によって、優劣をつけずにいたとしたら、今の私たちの世界はどのようになっていたでしょう?もし私たちが、あるグループに属するものたちは従属的であるべきだ、二の次であるべきだ、重要でない、価値がない者たちだからという考えを持たなかったとしたら?この世の権力者達に抵抗し、人間は他の人間を支配、所有するのではない、なぜならすべての人が栄え、一人も滅びることなく、誰もが神様と一緒に楽園に行けることを望んでおられることがキリストの教え・福音だからと聞いたら、私たちの世界はどうなっていたでしょうか?


そして何千年、何億年もの時を経て、私たちはイエス・キリストの教えに従おうとしています。しかし、もし私たちが、一定のグループが所有・支配することを神様が、聖書が許されているという考えにいまだに縛られているとしたら、キリストの教えは誰もが平等という解放的な恵みを示すのではなく、逆に威嚇的な調子を帯びるのではないでしょうか?


今日の二つ目の聖書箇所、イエス様が離婚について説教を始めた時のお話を一緒に見てみましょう。

イエス様が離婚は絶対にあり得ないと言っているように見えるこの箇所と、その後に続く、イエス様が神の国にとって子供たちがいかに重要であるかを強調している箇所を合わせてみてみましょう。 福音書の中で、イエスが「離婚は絶対にいけない」「子どもは神様にとって一番大切なもの」というメッセージ両方を語っているように見えるこの箇所は、実は多くの女性にとって厳しい、恵みを感じられない箇所なのです。


なぜなら、この箇所が次のように解釈され続けてきたからです。何世紀にもわたり、この箇所は、イエス様はすべての女性に、どんなことがあっても結婚から離れることは許されないと告げている、それが神様の教えだと。どんなに悲惨な状況であっても、どんなに虐待する暴力的な夫であっても、何があっても、絶対に離婚してはならないと。

しかし、実際に聖書箇所を見ると、その解釈には穴があります。権力に狂った家父長的な権力構造には穴があります。しかしイエス様はその穴から憐れみ深く、愛と慈愛に満ちたご自身の顔を見られるのを待っているのです。


「離婚は絶対に許されない 」という解釈の最初の小さな穴は、冒頭でイエス様が離婚について受けた質問を、質問者に対しモーセの律法は何と言っているかと答えるところにあります。ラビ(聖職者)であるイエス様はモーセが離婚に対してどのように教えていたかを知っています。だからこそ、福音書のあらゆる場面において、イエス様は保守的な律法主義を取り上げ、制限的で律法的な神様の教えといわれる事柄に対し、より進歩的な解釈を与えるために愛を使っているという事実にもかかわらず、この箇所で、イエス様はこのように言うのです。

「モーセが厳格だと思ったか?それなら、律法主義者の中でも最も律法主義的な人たちをも赤面させるような教えを授けようではないか。」


私たちが知っている、信じているイエス様がそのような回答をするでしょうか?考えてみて下さい。もしあなたがここで立ち止まり、この箇所に何か辻褄の合わない何かがあることに気づくとしたら、もしあなたが私のように考えるのであれば、あなたは自問し始めるはずです。


なぜ?


宗教指導者たちが人々を支配し抑圧していた過酷な律法主義を打ち破ろうとしたイエス様が、なぜ突然、しかもこの場所で、このようなことを言ったのでしょう?なぜ離婚はしてはならないというモーゼスの教えについて言及したのでしょう?


その答えは、今日の聖書箇所の文脈にあります。イエス様の時代においては、結婚も離婚も現代のように取り扱われてはいませんでした。今日、結婚について考える時、二人が人生を分かち合い、神様のもとで支え合い、愛し合うことを誓い合う、お互いが対等であり、お互いに対し責任をもつというコミットメントを意味します。しかし、イエス様の時代において、結婚とはそのようなものではありませんでした。結婚とは社会的な契約であり、男性が女性を女性の家族から買い取り、家専用の奴隷として、また自分の血統を継続、繁栄させるための器として結婚という制度を利用していたわけです。ほら、現代の結婚の意味とは全く違うでしょう?


しかも、当時の女性には権利もなければ、家庭外で自活する手段もありませんでした。つまり、女性が長期的に生き残る唯一の希望は、結婚することだったわけです。もちろん男性にそのような制限がかけられることはなく、男性は成人すれば家を出て、社会参加の権利を完全に持つことができました。彼らはお金を稼ぎ、富を築き、富を保有することができ、自分達が稼ぐ賃金で自分自身と自分の家庭を支えることができたわけです。その流れの一環で妻を買うこともできました。もちろん、マルコの福音書が書かれた時代では、アブラハム的な一夫多妻制の時代はとうの昔に過ぎ去り、結婚前に娘を男と二人きりで部屋に入れるような父親はいませんでした。とすると、目の肥えた男性が次から次へと女性を自分の家庭に、支配下に置きたかったすればどうしたでしょう?答えは離婚です。


特に裕福な男性は、貧しい家庭の女性を買い続け、飽きるまで使い倒し、その後はゴミのように捨ててしまうことが簡単にできました。女性の唯一の社会的財産は結婚しているというステータスであったため、女性にとって離婚は死刑宣告と同様のことだったのです。離婚された女性は、貧困、困難、さらには死に直面することになり、路上に放り出されました。すべては、彼女たちを尊敬に値する対等な人間としてではなく、基本的な尊厳に値する同胞としてでもなく、気まぐれに利用され捨てられる対象として見ることを選んだ一人の男の解釈のせいなのです。


それから2000年が経った今、結婚はかつてのようなものではなくなりました。結婚は奴隷労働を確保するための経済的な契約ではなく、神様と世界の目から見て2人の平等な立場にある人間の相互愛を表すものとなりました。もちろん、現代の結婚が完璧だと言っているわけではありません。近代的な結婚の仕組みが台頭したからといって、乱暴で人を欺く男性がいなくなったわけではないし、全ての人が正直で、真実であり、人間関係において完全に優れた良きコミュニケーターになったわけでもありません。好む好まざるとにかかわらず、どんなに努力しても結婚生活は時として、とてもとてもうまくいかないものなのです。


しかし、結婚がうまくいかなくなったとき、残酷な男たちが女性達を虐げる時、そう、は言っても女性が男性を虐待をすることがあるのも事実ですが、統計的に言えば、男性が女性を虐げるケースの方がほとんどなのです。神様に祝福された数少ない社会制度である結婚を武器に。そして恐ろしいことに近年の虐待者たちは、結婚という制度やそのほかの法律を使って人々を安全な場所から苦しみの中に追いやるのではなく、イエス様の言葉を使って人々を有害で危険な結婚生活に縛り付け、抑圧されたものが安全で自立した生活から抜け出させないようにしているのです。


しかしみなさん、イエス様がこれを容認されていたと、この聖書箇所をみて思われますか?いいえそうではありません。むしろその反対なのです。当時、モーセの戒律は、ある集団が他の集団に対し、偉大な権力を行使することを許すように解釈され、神の神聖なイメージの担い手である他の人間を、神様が造られた最愛の伴侶ではなく、使い捨ての物として扱うことによって、自分個人の満足のために、相手に取り返しのつかない害を与えることを許していました。


今日の聖書箇所でイエス様は離婚を非難していたわけではありません。イエス様は、結婚という制度が人々よりも重要であることを教えていたのではなく、制度を虐待の道具として使うことを平然とやってのける集団の人々に語りかけ、彼らが糸口を完全に見失っていること、制度の目的は一部の人間が他の人間に対する権力を行使することではなく、平等、相互性、愛の中で私たち一人一人が互いを結びつけることであることを伝えたのです。


人間がしうる最も残酷なことの一つ、それは他の人を犠牲にしてでも、自分に力が与えれる時にそれをすることを選んでしまうということです。だから聖書の教えを捻じ曲げ、そこに書かれる律法に目を凝らし、自分なりに解釈し、権力を手に入れるために、そこに書かれていると文脈を無視し、正当化する訳です。だから私たちは、権力と特権の福音を私たちや私たちの子孫に説くような制度や解釈やシステムを構築し、ある者は支配するように、ある者は奉仕するように造られ、定められているのだと言い聞かせ、そのような考え方で今日のような聖書箇所を眺め、イエス様が私たちの背中を押してくれていると自分に言い聞かせるわけです。イエス様は離婚をお許しになっておられないと。


しかし、イエス様、本当に私たちが知らなければいけないイエス様は、長年にわたって積み上げられた虐待的な権力体制に立ち向かい、全能の神の前においては、人間が創り上げた権力体制は神様から来たものではなないと、その場にいる全員に大胆に宣言するような方なのです。あなたの聖書箇所の解釈、あなたが考える結婚のあるべき姿、あなた自身の権力、特権、富を強制するシステム、これらが問題ではないのです。人々、人間自身が問題なのです。 


神様はまず、完璧で性別のない被造物を創造されました。

しかししばらくして、その被造物に何かが必要だということに気づかれました。 この気づきは、造った被造物の手足の数が違うとか、色が違うとか、そんな些細なことではありません。


神様が新たに被造物を造られようと思った理由、それは一人では人間が孤独だったからです。私たちと同じように、アダムも最初に造られた人間も他の人を必要としていたのです。初めに造られたアダムは、すべてのものを生き物を与えられていたのです。しかしアダムには楽園ではなく、人が必要だったのです。同士、仲間、ヘルパーが。 

そこで神様は、神ご自身をよりよく反映できるような方法で新たなパートナーを造られます。最初に造った人間を分割し、両者を変化させたのです。そうすることで、それ以後造られるすべての人々が、重要な、ただひとつのことに集中するようになるために。

 

それは相手、他の人、その人達との人間関係、愛です。

 

それが神様がご計画されたことでした。けれど私たち人間はそれを台無しにしてしまったのです。私たちは、誰が誰をどのように愛することができるかについて、あらゆる制度や規則や制限を作り、互いの間に境界線を張り巡らせたのです。でも神様のお考えは全く変わっていません。神様は全ての人が神性をもち、お互いのパートナーになれるように私たちを造られたのです。


私たち一人ひとりが、無限の組み合わせの無限の多様性の中で、神の無限の愛に満ちたプリズムの一つの輝きであることを見ることができる世界を想像してみてください。

 

イエス様は当時離婚に反対されました。なぜなら、離婚という制度は、その時代、その場所において、ある人々が、他の人を使い捨てのように扱える手っ取り早い方法を可能にする道具だったからです。


そして、イエス様は子供たちに目を向けられます。私たちが築き上げ、私たちが買い入れ、私たち自身のために設計した社会的、政治的システムにまだ接ぎ木されていない子供たちです。イエス様は彼らに目を向け、愛と平和、そして他者との関係の中で生きたいという願いしか知らない子供達の目を見て言われました。


「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10:14)

 

だから、想像してほしいのです。お互いの関係を求め、関係を育み、神様が文字通り私たちを造られた神聖なつながりに立ちはだかる障壁を取り払い、私たちが想像できるもよりもさらに素晴らしい世界を共に築こうではありませんか。

 

それこそが神の王国なのだから。


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