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「正しく生きる」

  • Rev. Don Van Antwerpen
  • 6 hours ago
  • 4 min read

ドン・ヴァンアントワープン牧師

2025年11月2日(日)

ハバクク書 1章1〜4節、2章1〜4節

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さて、説教の最初の段階で、もうすでに皆さんの中には、こう思っている方がいるかもしれません。

「さて、今日はどんなちょっと変わった話とか、個人的すぎるエピソードを持ってくるんだろう?」と。

まあ、たしかに(笑)。

私はたくさんの「ちょっと変わった」話を持っていますし、必要があれば喜んで引っ張り出してきます。

先週なんて、中高生の前で第一ペトロの初めの部分を話すとき、

小学生のときにいじめっ子に道路に突き飛ばされそうになって警察のお世話になった話をしたくらいです。

だから、「また何かあるだろう」と思われるのも無理はありません。

でも、今日はそういう話はしません。

話がないわけじゃないんです。たくさんあります。

でも、今日はその必要がない気がするんです。

なぜなら、ハバククという預言者は、ある意味で「私たち自身の姿」だからです。

「主よ、どれほど叫んでも、あなたは聞いてくださらないのですか?」

──この言葉、心のどこかで何度も祈ったことがありませんか?

もしかしたら、この一週間のうちに、何度も神さまに向かって叫んだ人もいるかもしれません。

誰もが人生の中で、誰かから傷つけられた経験があると思います。

個人的な関係の中でかもしれないし、あるいはもっと大きな社会的な構造の中でかもしれません。

そして、そんなとき私たちの心にまず浮かぶのは「報いを受けさせたい」という気持ちです。

「誰かが正義を果たしてほしい」──そう思いますよね。

でも、残念ながら、神さまの「正義」は私たちのそれとは違います。

神の正義は「愛のかたち」であり、「罰する」ことではなく「いやしと回復」なのです。

だから、私たちが「正義を」と叫ぶとき、実は多くの場合、「誰かに苦しみを与えてほしい」と願ってしまっています。

自分が受けた痛みを、そのまま、いや少し余分にでも、相手に返してほしいと願ってしまう。

そして、神さまに助けを求めたのに、「赦しなさい」「愛しなさい」「待ちなさい」と

静かに語りかけられるとき、私たちは腹が立ちます。

「なぜ悪が勝っているのを見せられなければならないの?」

「なぜ苦しむ側がこんなに報われないの?」

──そう叫びたくなります。

「律法は無力になり、正義は実現せず、悪人が正しい人を取り囲み、裁きはゆがめられる。」

まさに、そう感じる瞬間があります。

「いったい神さま、私たちにどうしろというのですか?」

しかし、神の答えはいつも同じです。

「わたしの正義は、罰ではなく、あわれみだ」と。

そして──あわれみには、時間がかかるのです。

悪や自己中心的な行動を選ぶ人々は、神が罰をくださなくても、

すでに自分自身の中に滅びの種を持っています。

憎しみ、恐れ、自己防衛──それらはみな、孤立を生み出します。

他人とのつながりを犠牲にして、自分の恐れから逃げようとするのです。

でも、嘘や欺きは長くは続きません。やがて真実が現れます。

嘘や圧政や搾取による力は、他者の支えに依存していながら、

その支えを燃料のように使い果たしてしまいます。

だから、やがて自らの重みで崩れるのです。

いずれ真実が現れ、孤独と恐れの中に取り残される。

──それが、悪の終わりです。

では、「悪は必ず滅びる」と分かった私たちは、

安心して「神さまに任せておけばいい」と思ってしまいがちです。

「自分たちは善い人間だから、問題ない」と。

けれども、ハバククが語る神の言葉には、もう一つ大切な真理があります。

「高ぶる者を見よ。その心はまっすぐではない。

しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

「高ぶり」とは、恐れに対する心の防衛反応です。

「自分は大丈夫」「自分は正しい」と思い込もうとすること。

それは、恐れを直視することが怖いからです。

でも、その小さな自己防衛が、少しずつ心をゆがめていきます。

最初はほんの小さな妥協です。

「少しぐらいなら」「今だけは」「仕方ない」。

でも、プライド(高ぶり)は少しずつ私たちを鈍らせ、

気づけば、心がどれほど曲がってしまったか見えなくなってしまいます。

けれど、「正しい人は信仰によって生きる」。

つまり、「正しい」とは、神を信頼し、愛に生きる選択をすることです。

それは一度きりの決断ではありません。

日々、恐れに直面しながら、「報復ではなく、あわれみを選ぶ」選択を重ねていくのです。

それは、「平和と互いの成長を求めなさい」とローマ書14章にあるように、

毎日の選択で築かれていきます。

悪は、恐れに支配されたときに育ちます。

しかし、正しさ──義──は、恐れを見つめ、

愛とつながりを選び取ることから始まります。

正義とは、毎日の中で何度も「やり直しながら」選び取るもの。

怒りや復讐ではなく、他者への思いやりをもって、もう一度「正しく生きよう」とする道です。

それが、神の国を地上に築くということです。

毎日の小さな選択の中で、私たちは「正しく生きる」ことを学び続けます。

そして、何度も失敗しながらも、神さまのあわれみの中で、もう一度立ち上がるのです。

それこそが、「信仰によって生きる」ということ。

──アーメン。

 
 
 

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