「見ていて恥ずかしい」
- Rev. Don Van Antwerpen
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2025年6月15日
Unfinished Community
ヴァンアントワペン ドナルド牧師

人生が困難な時、わたしはどうしても、自分が子どもだった頃のことを思い出してしまいます。思春期でもなく、若い大人になってからのことでもありません。その時期については、わたしにとってあまり楽しい思い出がなかったと、みなさんによくお話ししていますよね?
わたしが本当に小さな子どもだった頃のことを思い起こすことがあります。
確かに、あれから随分と時が経ちましたが、それでも当時の自分がどのような子どもであったのか、そしてその小さな目に世界がどのように映っていたのか、今でもいくらか覚えています。すべてのものにただただ驚嘆し、太陽の光の美しさや、そよ風のやさしさ、目に映るあらゆる新しく興味深いものに心を躍らせていたあの頃。小さな目を通して見た人生は、次々と現れる小さな喜びの行進のようでした。
そして、そんなわたしの子ども時代の真ん中にいたのが両親です。もちろん今でも両親のことを心から愛しています。きっと今朝この話を聞いているので、ここで一言感謝を伝えしょたいと思います!幼い私にとって両親はまさに「大きな存在」であり、私の両親の愛情もまた、それに比例する非常に大きなものでした。そしてありがたいことに、両親も私を同じくらい、深く愛してくれました。
このことは、私にとって何より幸いなことでした。というのも、幼い私は「愛すること」が大好きだったのです。両親を見かけるたびに全力で両親に抱きついていましたし、友達や兄弟姉妹にも同じように、愛情を惜しみなく注いでいました。叫びながら走っていって、笑顔で愛を分かち合う、私はそんな子どもだったのです。
私の一番下の息子をご存知の方は、きっと私が言っていることの意味がわかるのではないでしょうか?
幼い私にとって、愛は最高のものでした。他の何よりも大切な、たった一つのものでした。私は愛に満ちあふれていたのです。自然の美しさに感動し、花を摘み、音楽の美しさに涙し、両親を愛し、友達を愛し、そして可能な限りすべての人を愛そうとしました。実際、妹が生まれて病院から初めて家に帰ってきたとき、私はすぐに自分のベッドのスペースを空けて、「ここに寝かせてあげて」と両親にお願いしたほどです。
だって、当然のことじゃないですか? 会ったばかりとはいえ、妹は私の妹なのですから。私は彼女を愛していたのです!
とはいえ、ここで両親が喜んで証言してくれるであろうように、私は決して「完璧な子ども」ではありませんでした。怒りや愚かさ、意地悪な面など、人間的な欠点もたくさん持っていたことは間違いありません。それでも、最もよく覚えている感情、最も強く心に残っているのは、「愛こそがすべてにおいて最も尊いものである」という確信でした。このことだけは、ずっと心の中に根を下ろしていたのです。
愛は、私にとって小さい頃から神聖なものでした。
聖書を手に取る前から、私の小さな心は「神は愛である」という真理を、どこかで知っていたのです。
そして、その愛がそれほどまでに素晴らしく、驚くべき、神聖なものであったからこそ、幼い私はそれを隠しておくことができませんでした。愛は抱きしめるものであり、誇るものであり、屋根の上から叫ぶほどの価値があると信じていたのです。部屋の向こうにいる友達に、控えめにうなずくだけなんて、どうしてできましょう? 三つの机を倒してでも、愛のこもったハグをしに行くべき!そう思っていました。
私は、心から喜びに満ちて、惜しみなく、ためらいもなく、何の迷いもなく、人を愛しておりました。
しかし、そのようにいられたのは小学校に入るまでのことでした。
今でも覚えています。初めて友達に「大好きだよ」と公の場で伝えた日のことを、はっきりと。
それは、非常に長い間、私に友達がいなくなるきっかけとなった出来事でした。
私は「愛することが恥ずかしいことだ」とは、まったく知らなかったのです。少なくとも、それを知るには、あまりにも遅すぎました。
突然、そしてほとんど何の前触れもなく、誰も私のことを抱きしめられたがらなくなりました。誰も遊びたがらなくなり、笑って草の上を駆け回ることも、ましてや友達になることすら望まなくなったのです。私は「愛は汚れたもの、恥ずかしいものだ」と知らなかったがゆえに、まるで忌み嫌われる存在のようになってしまいました。いじめっ子たちの標的にされ、本来なら仲良くなれたはずの子どもたちも、「同じ扱いを受けたくない」と、私から距離を置くようになりました。
誰も、「そういうタイプの人」にはなりたくなかったのです。それはあまりにも「あからさま」だから。それは恥ずかしいことだから。心をむき出しにして、それを誰にでも見えるところに置くなんて。それはあまりにもリスクが大きすぎる。誰にでも傷つけられてしまうから。
傷つけられるかもしれない。
それは私たちが小学校の頃に最も恐れていたことではなかったでしょうか?きっと私たちは皆、幼い頃は大きな愛の塊のような存在だったと思います。たとえ家庭がどれほど厳しく、辛いものであったとしても、その子どもたちの心の奥底には、「誰かとつながりたい」「愛されたい」という深い願いがあったのです。その願いが叶えられなかったからこそ、苦しみが生まれたのでしょう。
私たちは皆、愛から始まりました。しかし、互いに関わるようになるにつれ、恐れが芽生え、やがて愛は「危険なもの」「面倒なもの」と見なされるようになりました。
愛が「恥ずかしい、ゾッとする、体がすくむもの」となってしまったのです。
時が経つにつれ、もちろんいじめっ子たちは、私をいじめるために、もっと簡単で明白な理由を次々と見つけていきました。たとえば、我が家の家庭の経済状況、着ている服、あるいはサンタクロースがプレゼントの代わりに私に残していった「ゼリーのように揺れるお腹」などです。
けれども、そうした表面的な理由の奥底にあったのは、「私という存在そのもの」や、「誰かと分かち合いたくてたまらなかったその愛」が、社会的には受け入れられないものである、という考えでした。
つまり、受け入れる愛は「ふさわしくない」ものだったのです。
だから私は学びました。自分の大切な人に大きなハグをするのをやめ、褒め言葉を贈るのをやめ、あれほど自然だった笑顔もやめて、世界の色を手放しました。
私は学びました。正直に申し上げれば、ぎこちなく、そして完全とは言えませんでしたが。手を伸ばすことを思いとどまり、顔には感情を出さず、言葉や思考を細かく吟味しました。社会的に「無難」とされる感謝や評価以上のものを抑え込むことを学んだのです。
要するに、私は「大人」になる選択をしたのです。
正直に言えば、私はその過程で随分ともがきました。私は少々学びの遅い人間かもしれません。しかし、やがて私は、社会的により受け入れられやすい表現のしかた、自分自身を周囲の境界線や暗黙のルールに合わせていく方法を少しずつ身につけていきました。
私は心にバリケードを築いたのです。自分の心や魂の内に、バリケードを築くことを覚えました。ふさわしくない愛を与えてしまう恐れに対してです。
たしかに大人になった今の私は、私をいじめた、廊下の端にあるロッカーの前に立つ、筋肉質で噂好きで、馬さえ気絶させるようなパンチを繰り出す少年のことを恐れて生きているわけではありません。けれども、ふとした時に聞こえてくる小さなささやき声は、かつてのランチルームでの囁き声と同じくらい痛みを伴います。廊下の一番奥にあるオフィスで、きっちりとした髪型と厳格な態度を身にまとい、履歴書の山を手元に置く上司が、私に対して「チームプレイヤーではない」とか「場の空気が読めない」と判断したときに放つ一撃は、最も強力ないじめっ子にも引けを取らないほどの威力を持っているのです。
大人になるということは、恐れを抱えるようになるということでもありました。私も、そしてきっと皆さんもそうだったのではないでしょうか。私は「愛」に対して、恐れることを学びました。愛の持つ途方もない力から身を隠すことを覚えました。なぜなら、私はもうすでに、それが時に痛みを伴うものであるということを知ってしまっていたからです。
中学生、高校生になる頃には、私たちはこう学びます。「好きな人がいることを知られないようにしなければ、恥をかくから」と。そして、公の場で愛情を見せることを避け、ハグやキスといった、たとえそれが招かれたものであっても、親密さを示す行為をやめ、「手をつなぐこと」さえも、決して人前ではしてはならないのだと。そう、教え込まれていきます。
高校生活が過ぎ、大学も通り過ぎて、私たちは大人になりました。しかし、それでもなお、私たちは自分の周りの人々に愛を示すことに、恐れを抱き続けています。
最後に、パートナーがあなたに公の場で、思いきり強く抱きしめてくれたのはいつのことでしょうか?あるいは、ちょっとはにかむような、でも情熱的なキスをしてくれたのは?
思い出せませんよね。そんなことを人前でするなんて、「とんでもない」ことだとされているからです。だって、周りの人に「この二人は愛し合っているのかも」と思われてしまうかもしれません。それはなんだか、「よくないこと」のように感じられてしまうのです。
でも、私たちは、心の中にある愛をこれほどまでに抑え込まなければならない世界を築いたことで、一体何を得たのでしょうか?
人前で愛を示すことが「恥ずかしい」とされる社会に適応することで、私たちは何を得たのでしょう?
「あなたがどれほど大切な存在なのか」を言葉にしないことが当たり前になり、誰かが愛情を示してくれたときに逃げたり隠れたりすることが普通になり、本当はすぐ近くにいたいはずの人を、常に腕の届かない距離に置くようになってしまったこの生き方から。。。
私たちは、一体何を得たのでしょうか?
大人になることで、私たちは本当に何かを得たのでしょうか?
今週の説教ではあえて取り上げていませんが、本日の聖書日課の箇所はローマの信徒への手紙5章です。そこから一節シェアしたいと思います。
「 3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
実のところ、今週の説教はこの一節から始めました。しかし、私はこの箇所と長いあいだ格闘していました。なぜなら正直に言うと、「私たちは一体何に耐え忍んでいるのか」という問いに、なかなか答えが見出せなかったからです。
もちろん、パウロの念頭には、当時ローマにいたキリスト者たちが信仰ゆえに受けていた迫害があったのでしょう。しかし私は、それがどこか抽象的なことのように感じてしまったのです。なぜなら、ただ静かに信仰を持って生きているというだけで、隣人を怒らせることは、現代においてもそうそうないことだからです。
ほとんどの人は、当時も、そして今も、社会的な慣習を破ったり、目立ったり、人に不快感を与えたりしない限りは、他人のことに干渉せず放っておくものです。
しかし、キリスト・イエスを信じる信仰を通して、私たちが耐えるように召されているのは、私たちの信仰に対する迫害ではなく、私たちが人々とは違う祈りをするから、私たちが彼らとは違う礼拝をするから、私たちの賛美歌や歌が人々とは違うからという理由で隣人から裁かれるのでもないのです。
私たちは、愛とは軽いもの、恥ずべきもの、恐れられるべきものだと私たちに言う世界に対して反発するように、耐えるように召されているのです。
世界は私たちに、せっかちになれ、自分の目標を追求するために人を見捨てろと言うでしょう。
世間は、他人を忘れて自分のものを手に入れろと言うかもしれません。
世間は、他人を犠牲にしてでも、手っ取り早い感情や即席の幸福が好まれるべきであり、利己的で残酷で思いやりがない人々は、私たちの怒りや無関心に値するだけだと言うでしょう。
世間は私たちに、すぐに怒るように、私たちと自分の心の目先の欲望との間に立ちはだかる人々に暴力を振るうように、そういう人たちを決して赦さないように、決して忘れないように、私たちの心が水ぶくれになって壊れるまで恨みを募らせるように言うでしょう。
正直に話したり、正直に分かち合ったり、自分の失敗に直面することは、今、この瞬間の幸福を追求することを妨げるかもしれないから。
愛、本当の愛、神が宿り、神そのものである愛。私たちの存在の核心であり、私たちの内なる神様と私たちの愛ある関係は、私たちが最初に知ったことであり、唯一重要なことである愛であり、世間が語る愛は、これらのどれでもありません。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛に終わりはない。
子供の頃、私は子供のように話し、子供のように考え、子供のように推論した。大人になったとき、私は子供じみたやり方に終止符を打った。
それは誰のためにとってもよいことではなかったと今気づきました。
18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
こうして大人になった私は、幼い頃の自分が本能的に知っていた永遠の真理を思い出しています。愛とは、抱きしめるべきものであり、大切にすべきものであり、忍耐と練達をもって、私たちの主キリスト・イエスによって可能であることのすべてを示す記念碑となるまで築き上げ、育てるべきものであり、決して取り壊すことのないものなのだということを。
私は皆さん一人一人を愛しています。一人ひとりを。疑うことなく、証しすることなく、報いることなく。
私は皆さん一人一人を愛しています。私はこの愛を大胆に、そして惜しみなく捧げたいのです。もしこれを言って逮捕されなければならないのなら、私に手錠をかけさせてほしい。愛のない砂漠で渇きで死ぬくらいなら、剣でさっさと死んだほうがましだから。
そう思います。
私はあなたを愛しています。あなたたち一人ひとりを。神様が最初に私たちを愛してくださったからこそ、私は愛することができるのです。
その愛は、私たちの主イエス・キリストの恵みの中に現れた創造主の賜物であり、あなた方一人ひとりの中に生きています。
信仰を持ってください。希望を抱いてください。けれど何よりも愛することを選んでください。
そして惜しみなく愛しなさい。
恥じることなく愛しなさい。
大胆に愛しなさい。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
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