2025年3月2日
Unfinished Community
ヴァンアントワペン ドナルド牧師
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実を言うと、私は昔から自分の国であるアメリカが自分に合わないと感じていました。だから今私はアメリカに住んでいませんし、アメリカで働いてもいないわけですがそこに困難を覚えるどころか、むしろ心地よさを感じています。私には自分がアメリカ人であるという強い自覚がないわけです。けれど結局のところ、街で私を見かける人や、私がばったり出くわす人々にとって、私はアメリカ人そのものなわけです。大きい声で話し、生意気で、風変わり。そして太っている。しかし日本での生活が長くなるにつれて、私自身は自分自身が日本という社会に溶け込んでいるように思えてくるわけです。
そんな中自分の国に戻ると自覚することがあります。
私自身、もうずいぶん長い間アメリカに戻ってはいないのですが、20代の時に東京に数年間住んだ後、初めてアメリカに帰国した時のことは今でもはっきりと覚えています。帰国を何より楽しみにしていた私は、昔から知っている地元の人々に会いに行けること、他のアメリカ人と話ができること、そして自分が育った教会に行けること、自分が育った場所を再び訪れることができることに心を躍らせていました。しかし、飛行機からおり、自分が生まれ育った街に行き、顔馴染みの人々と話を始めると、すぐにその興奮は覚めました。なぜなら違和感を感じずにはいられなかったからです。
それは「逆カルチャーショック」と呼ばれるもので、異文化での生活で思っていた以上に自分が変わってしまい、母国文化に馴染めなくなっていることに気づくことを意味します。私の場合、日本に行く前から、自分の国が自分に合わないと思っていました。自国に元々馴染めなかった人ほど「逆カルチャーショック」を強く感じます。私たちは、逆カルチャーショックが人をどれだけ変えるのかについてはよく話しますが、逆カルチャーショックで変わった人がどのように受け止められるかについては、あまり考えたり話したりすることはありません。
私は異国での生活を通じて変わった人が、白い目で見られたり、怒られたり、酷い扱いを受けていることを見たことがあります。なぜなら自国に戻ってきた人を迎える人々は、相手が自国では経験できないような様々な経験や大変を通して成長したということに目を向けず、自分たちが保持するその人のイメージや、その人とのやり取りの記憶を元にコミュニケーションを図ろうとするからです。
だから、もしあなたが海外で時間を過ごし、そこで生活をし、自国に戻ったとすると、自国が自分に合わないと感じるだけではなく、周りの人々もあなたを受け入れることが難しくなります。それはあなたが変わったからです。あなたは自国を去る前のあなたとは違う人間なのです。そして今、あなたは選択を迫られます。難しい選択を。変わった自分が、前の自分に戻ることを拒み、新しい自分として自国で再び生きることを選ぶのか?それとも変わった自分は受け入れられないから、本当の自分を隠し、人々が持っている自分の昔のイメージを守ることを選ぶのか?人々の期待を踏みにじらないよう、新たな自分を殺し、人々が自分に対し不快感や混乱、戸惑いを持たないようにするのか?
今お話しした選択は、今日の聖書箇所に出てくるモーセが迫られた選択でもあります。シナイ山を下りてきたときに直面しなければならなかった問題とほとんど同じである。モーセはシナイ山で神様と語り合った後、山を下りてきました。神様の御前で時を過ごした人は、いた場所を以前と同じように立ち去ることはできません。神様という完全な愛の前に立ち、その愛が実際にどのようなものであるかを目の前ではっきりと見ることは、人を変えます。もしあなたがそのことを経験するのであれば、あなたは新たな視点で自分を見つめ、自分の人生を見つめ、以前とは違う風に生きることを決断するわけです。自分軸ではなく、神様軸で人生を生きる。そのように決め、山を降りるモーセの顔の肌は光を放っていました。しかし本人はそのことを知らなかったのです。
実を言うと、神様と時間を過ごしたモーセは、喜びいっぱい、胸いっぱいでスキップしながら下山したのではないかと私は想像しています。しかし、山をおり共同体のところに戻った彼はすぐに気づきます。自分の高揚感はみんなに理解されるものではないことを。なぜなら神様と時間を過ごしたのは自分だけだったからです。事実、共同体の人々は光を放つモーセを恐れ、彼に近づこうとはしませんでした。モーセの姿は変わっていったのです。変わったのです。それは共同体の人々には不可解な姿でした。
モーセは決断を迫られます。神様を時間を過ごし変わった自分に人々が不快感を示し、怒りを抱くことを許すのか、それともそのようなことが起こらないために新しい自分を隠すのか?
モーセは隠すことを選びます。神様に変えられた自分ではなく、人々が期待している人物になることができるように。今の自分を隠すことにしたのです。
モーセは、共同体の人々に語りかけます。モーセはシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく人々に命じます。そして それを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けます。自分が本当は何者であるかを隠せば、人々が少しは自分の言うことに耳を傾けてくれるかもしれない。
モーセのこの言動は、私たちの多くがとる言動と一緒です。けれど私は、モーセの言動は間違っていると思います。なぜならモーセは、完全である神様の愛を受け入れる準備ができていない世俗的な考え方に合うように、神様がつくりかえてくださった自分を変えたのです。自分を世の中の基準に合わせることで、自分に映し出された神様の栄光の光の輝きをわざと弱めたのです。
このモーセの選択こそ、パウロがコリントの信徒への手紙第二で問題にしていることでした。パウロの議論が100%正しいとは思いませんが、パウロはモーセが物事を容易にするために、自分に放たれた、光り輝く主の栄光を意図的に抑え込むという決断をしたという風に主張します。モーセのこの決断は他の 指導者や共同体の民とのコミュニケーションを円滑にし、神の御前で時を過ごし、変えられたモーセを見て、人々が動揺するのを免れると考えました。しかし彼は大切なことを見落としていました。その代償として、神様がモーセを通して人々に伝えようと意図していたメッセージも変えられたモーセと一緒に隠されてしまったのです。
モーセは自分の顔に覆いをかけることで、人々が、神様の輝く完全なる光が不完全な人間に放たれる瞬間を見る機会を奪ったのです。欠点だらけの人間である私たちの不完全さと神様の完全さが一緒に示される時、私たちは違和感や葛藤を覚えます。その葛藤はより神様に近づくために必要な葛藤です。けれどモーセは成長のために必要な違和感や、葛藤を経験する機会を人々から奪ったのです。
私たちが神様の本物で、完全で、神聖な愛により、人が変えられたのを目にするとき、それは私たちの友人や家族が海外生活から帰国したときに経験するショックとよく似ています。海外生活で変えられた人に接することによって私たち自身も自分の人生を違う視点で見つめれる可能性が与えられます。そのことを通して、私たちも変わることができたかもしれません。成長することができたかもしれません。さらに人間として成熟することができたかもしれません。
しかしその可能性より、保身を選ぶことの方が簡単です。なぜなら目の前の人の変化をうけいれる。それだけでなく、その人の変化を通して自分も変わろうとする。自分も変えられることに抵抗しないでいることは、容易なことではないからです。
変化は痛みを伴います。変化は一種のカルチャーショックです。明るく輝く神様の栄光と、今の自分は相容れないという自覚にはショックが伴います。神様の栄光と相反する自分に向き合うことには痛みが、カルチャーショックが伴います。自分とは違う考え方(神様の考え方)を自分の中にゆるすということは、異国の地で、その土地の慣習や考え方に合わせようとすることと同じことなのです。神様が起こそうとされている変化を受け入れるとはそういうことなのです。
私たちは、神様の栄光を通して放たれるその輝きが制限されず、遮られず、妨げられることなく光り輝くようにする必要があります。人々には理解されないかもしれません。人々は神様によって変えられた新しい私たちを好まないかもしれません。人々は変えられた私たちを受け入れてくれないかもしれません。尊敬しなくなるようになるかもしれません。あるいはもっとひどい場合は、変わったあなたを受け入れるつもりはないと、あなたの側を離れる人も出てくることででしょう。このような恐れを私たちは明け渡さなければ、私たちを通して神様の栄光がこの暗い世の中において輝くことはないのです。
クリスチャンにとって、イエス様は私たちの啓示であり、フィルターなしに、太陽のように明るく光り輝いています。
そしてあなたを通して輝きたいイエス様はこのように言うでしょう。人々を不快に思うほど愛しなさい。人々があなたの決断にショックを受けるほど力強く愛しなさい。人々が何が起こっているのかまったくわからなくなるほど、理解に苦しむくらい愛しなさい。世界のあらゆる権力者や支配者が、神様によって変えられた、変えられることを受け入れた人々を通して世の中に変化が来るに違いないこと、変化が来るのを防ぐことができないことを知って、震え上がる時、あなたは愛を選びなさい。
世界をショックに陥れるほどの強い愛を持ち、愛しなさい。
神様の限りなく力強い愛によって、私たちは変えられ、再生することができます。
今日のお話の変容とはそういうことなのです。
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