倒れるその場所で
- Rev. Don Van Antwerpen
- Oct 5
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Unfinished Community, ヴァンアントワペン ドナルド牧師, 2025年10月5日(日)
テモテへの手紙二 1:1–14

私たちの多くは、教会に来るときに、希望の言葉や励まし、心を持ち上げてくれるものを求めています。けれども正直に言うと、今日の私は少し心が重いのです。そして、きっと私だけではないと思います。多くの人が今、重さを感じています。ただ最近の出来事のせいではなく、長い年月にわたって積み重なってきたさまざまな重荷が、私たちを押しつぶそうとしているのです。周りを見れば、過激な思想や差別、暴力、気候変動の脅威などが私たちを取り囲んでいます。そして一人ひとりもまた、それぞれに個人的な苦しみを抱えています。病気、人間関係の問題、経済的な困難、心の痛み…。まるで背中に大きなリュックを背負い、重たい荷物でいっぱいになっているようです。時には、その重さに押しつぶされそうになります。「もう耐えられない」と感じることもあるでしょう。朝起きて、「一体これは何の意味があるのだろう」と思う日もあるかもしれません。祈っても答えがなく、癒しや解決のしるしが見えないとき、怒りや疑問がわき上がります。「神様、本当におられるのですか?本当に私を見てくださっているのですか?」と。今日の聖書箇所には、その問いへの小さなヒントが隠されています。パウロはこう書きました。「あなたの涙を思い起こし、あなたに会って喜びに満たされたいと願っています。」彼は最初に「信仰があるから大丈夫だ」とは言いませんでした。まず「涙」を思い起こしているのです。つまり――悲しんでもよいのです。苦しんでもよいのです。悲しみや痛みは、人間であることの自然な一部だからです。そして信仰は、それを避けるために与えられているのではありません。私たちもまた、他の誰と同じように苦しみを経験します。それでは、信仰の意味はどこにあるのでしょうか? 私たちが祈り求めるもの――病の癒しや問題の解決――が与えられないなら、信仰を持つ意味はどこにあるのでしょうか?私はその問いに向き合うとき、ある言葉を思い出します。それは聖書からではなく、イギリスのドラマ『ドクター・フー』のセリフです。「勝つためにやっているんじゃない。誰かを憎んでいるからでもない。楽しいからでも、簡単だからでもない。うまくいくからでもない。私は正しいと思うからやるんだ。誠実で、そして何より、親切だからだ。ただそれだけだ。もし今日逃げれば、多くの人が死ぬ。もし立ち向かえば、少しは救えるかもしれない。意味がないかもしれない。でも、それができる最善だから、私は立ち続ける。そして、倒れるまで立ち続けるんだ。」これは、今日の御言葉の核心をよく表しています。「神は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を私たちに与えてくださったのです。」神様が私たちに与えてくださるのは、必ずしも私たちが祈り求める「もの」ではありません。神様がくださるのは、「耐え抜く力」「一歩を踏み出す勇気」です。祈りの答えは、平坦な道ではなく、「次の一歩」なのです。そしてその一歩一歩の中で、私たちは愛を選び、思いやりを選び、壊れた世界に少しでも光を差し込むことができるのです。「私は、私が信頼している方を知っており、その方が私に委ねられたものを守ってくださると確信しています。」たとえ「死の陰の谷」を歩むときでも、私たちは独りではありません。聖霊が共におられ、私たちの弱さを通して神の愛を証しする力を与えてくださいます。だからこそ、悲しんでもよいのです。倒れてもよいのです。しかし、私たちは倒れて終わるのではありません。キリストにあって、再び立ち上がるのです。「立って倒れる」――そこに私たちの信仰の姿があります。愛のために立ち、愛のために倒れ、そして愛のために再び立ち上がる。その繰り返しの中に、神様の永遠の希望と愛が生きているのです。
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