2つの大聖堂
- Rev. Don Van Antwerpen
- 19 hours ago
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Unifinished Community教会, 2026年3月1日
ヴァンアントワペン ドナルド牧師
ヨハネによる福音書3:1-17

太陽が輝き、新礼拝堂の足場も撤去された今日は良い日だと思います。
しかし、皆さんの気持ちはわかりませんが、私にとってはこうした良い時、太陽の下にいる瞬間が、なぜかより辛く感じられる時があります。良い日が存在し得るという気づきが、悪い日を何だかより理解しがたいものに感じさせるからです。こんな良い日があるなら、永遠の愛に満ちる神様の名において、なぜ悪い日が必要なのでしょう?なぜ毎日が良い日ではないのでしょう?毎日暖かく晴れる代わりに、なぜ雨は降るのでしょう?雨の日には何の意味があるのでしょう?
礼拝堂にいる今この瞬間、窓の外に広がる新礼拝堂の景色を眺めながら、私の心は古いアメリカのテレビドラマ『ザ・ウエスト・ウィング』のエピソード、特に「二つの大聖堂」という回のある場面を思い起こします。
そのシーンは全てが完璧に調和して、人間的でありながら、霊的なものさえ表現していて、見た者の心と魂に焼き付くようなシーンだと私は思います。
90年代後半のアメリカの政治テレビ番組の詳細に詳しくない方のために、このテレビドラマの概要をご説明しましょう。主人公は有名な俳優マーティン・シーンが演じる、敬虔なカトリック教徒であるアメリカ合衆国大統領です。彼は、大切な人を亡くしたばかりで、信じられないほど辛い葬儀の後、ワシントン大聖堂に一人立っています。彼は警備員に外に出てドアを閉めるよう頼み、その大聖堂の中に一人残ります。彼は静かに話し始めますが、やがて、神様の聖域である大聖堂の中で、神様に向かって、怒りに満ちた暴言を吐き出し、火のついたタバコを大理石の床で消し、罪のない人々の喪失を許す神様に対する怒りと嫌悪を表した後その場を立ち去ります。
彼は、雨と、雨を降らせた神を呪うのです。
余談ですが、この番組で大統領を演じた俳優、マーティン・シーンが、タバコの火を大聖堂の床で消すという台本にはなかった演技をしたことにより、私の記憶では、その事件がきっかけで、ワシントン大聖堂はテレビ番組や映画からの撮影依頼を二度と受け入れることはなくなったそうです。
しかし、私がこの一週間ずっと頭から離れなかったシーンはそこではなく、マーティンシーンが言った次のセリフです。
「神様の慈悲深さは、あなたの、私の想像を超える。」
私はこのセリフは今日の私たちの多くが置かれている状況の核心をついていると思います。
混乱している。
確信が持てない。
神様の「慈悲深さ」のあまりの深さに、その異様と呼べるほどの深さに私たちは混乱しているのです。そしてその慈悲深さに確信を持てず、不安を覚えます。
つまり寒く雨の降る日と晴れる日があることに混乱するというわけです。
私たちは知的には、神様は理解不能だと理解しています。それでも物事が自分たちに理解できる形で起こることを私たちは期待してしまうわけです。愛は単純で理解しやすいように思えます。善良な人間であることはとても単純で容易に実践できるように思えます。イエス様に従うとは「悪いことをしない」ということ、それはまったく「当然のこと」のように思えます。しかし実際にそのように生きようとすると思い通りにはいかなくないでしょうか?
私たちが住む世界には目を伏せたくなるようなことばかりが起こっています。―億万長者や権力者たちが私有島で言語道断の行為に及ぶ者たちがおり、人々が私欲を突き通した結果環境破壊は進み、トランプは来季の大統領選挙の中止を画策し、オリンピックホッケーチームへ女性蔑視発言を浴びせています。カンザス州はトランスジェンダーの運転免許を全て無効化しました。これら以外にもあまりにも多くの惨事が起こっています。そしてそのどれもが理にかなっていないわけです。
神様にはご計画がある、不可知の理由がある、雲や雨の向こうには晴れた空があると私たちは自身を説得しようとします。なぜこんなことが起きているのか理解できないという事実を正当化するために、私たちは数えきれないほどの理由を見つけようとします。しかし結局、どんなに努力しても、起こる出来事は不可解で私たちは神様という存在が自分の枠の中にはどうにも収まらないと気づくのです。
私たち人間には理解できない神様。
しかし、神様という存在の不可解さに向き合うこと、神様の愛という理解不能な本質を掴もうとトライし続けること、雨を避けながら太陽を受け入れる姿勢こそが、私たちの信仰の定義そのものなのではないでしょうか?
先述したドラマの中で、米国大統領が神様に怒りをぶつけるあの場面。それは、痛みを伴う人生が神様の愛と激しく衝突した時に、私たち全員に起こりうる反応なのかもしれません。神様の愛が真実だと知りつつも、その瞬間の現実では、私たちにはそのように見えないわけです。
神様の愛と、自らが負った傷、期待、知識、恐怖が調和しないからです。
だから私たちは壊れるのです。崩れ落ちるのです。
今日の聖書箇所では、まさにこの瞬間をイエスの目を通して見るという、またとない体験ができます。
ニコデモは真夜中にイエスのもとを訪れ、イエスの教えに心惹かれながらも、自らが高名な「大物」であるために、人前にその姿を見られることを嫌っていました。彼の中に信仰の火種はあったものの、それは彼自身の条件、つまり彼自身の理性の範囲内で、社会的地位を犠牲にすることなく、到達しなければならないものでした。
彼は答えを求めていたのです。ファリサイ派として信仰について学び、研究し、自らの確信を固めてきた者として、イエス様を自分の枠に収める方法を見つけようという意図を持ってこの出会いに臨んだのです。
しかしイエス様の返答は、彼が求めていたものとは正反対であり、彼が神様から得ようとしたもの、必要としていたものとは全く逆のものでした。
イエス様は「上から生まれる」という概念を深く掘り下げます。ここで注意してほしいのはイエス様は「生まれ変わる」ではなく、「上から生まれる」と言っていることです。イエスはニコデモが神様と繋がり、神様を理解するには、彼の頑固で融通の利かない世界観とは全く異なる何かが必要だと考えたのです。現実を超越した理解がニコデモに必要だと考えたのです。それは例えば子育てをする親に似ています。子どもは好きなだけ食べ物を食べ、おむつを汚し、泣き叫ぶ。成長すれば口答え。でもそんなことはどうでもよいのです。親は子どもを愛しているからです。愛は私たちの先入観には収まりません。
イエス様はさらに彼を問います。神様について教える者として、本当にそんな考えでいるのか?と。「お前は本当に教師なのか?わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、皆が真昼の明るい光の中に来るのに、お前は真夜中に忍び込むのか。光の中にこない者が、神様の人知を超える、不可能に思える非論理的で、不条理な愛を、どうして理解できると思うのか?」
そしてイエス様は、こう語りかけます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」
神様がどのように働かれるか、私たちはそのことが起きた瞬間には理解できません。後になって振り返った時でさえ、ようやく何となく理解できる程度なのです。
神様は私たちの理屈で理解できる方ではありません。
そして私たちが神様に従うとき、神様のために耐えるように示される苦しみは、正直言って理屈に合いません。
時に、誰もいない場所で神様に向かって叫びたくなる時があるでしょう。自分に起こったことがあまりにも理不尽に思えるからです。愛を選ぶことがどれほど大変なことか、正しいことをすることがどれほど苦しいことか、自分自身を選ぶ方がずっと楽なのに、愛を選ぶことがどれほど大変なことか。
だから詩篇の中にあるような叫びを叫びたくなるのです。私たちは神様に感謝しながらも、慈悲深い神様が起こす出来事が理解できずに苦しむことがあるからです。
時として神様の前で、「神様、あなたが起こされたことがどうしても理解できない」と叫びたくなることがあります。
けれど、理解できないことを受け入れ、時が満ちるにつれて、気づくこと、それは私たちには理解できる前にすでに与えられていた素晴らしい贈り物があるということです。
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
必ずしも理解しているわけではないけれど、それでも私たちは受け取っているのです。
神の不可解な恵みによって、私たちは受け取っているのです。神様の愛を。神様の恵みを。
だから今この瞬間、二つの小さな礼拝堂の間に差し込む光を喜びましょう。私たちが今、自分たちに起こっている物事をほとんど理解していないことさえも喜びましょう。神様の愛は私たちには理解不能であったとしても、その愛が私たちの傷、怒り、痛みに対しての答えなのですから。
アーメン。


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