ヴァンアントワペン ドナルド
Unfinished Community
2025年2月2日

私を知っている人は、私がルールに縛られることを好まないことを知っています。そんな私も年を重ねるにつれて、ルールが果たす役割や、意味を理解するようになりました。ルールは効率化、組織化の際に便利な道具であり、目的達成に役立たなくなったらルールを変更したり、そのルールを廃止したりすれば良いのだと思うようになりました。しかし、若い頃の私は教会にある暗黙のルールが大嫌いでした。
教会に長年通っている方はわかっておられると思いますが、教会には多くの規則・ルールがあります。そしてそれには理由があります。私たちは、人間である限り切り離せない罪の性質に囚われないように、また教会という共同体を通して権威や権力を手にした時、ルールを通して自分達に歯止めをかけ、ルールを全うするという責任を自分達に課します。私たちが規則に従う理由は、私たち自身が権力を振りかざし、権力を行使する専制君主になるのを防ぐためであり、そして何よりも静かでありながら止む事のない声、つまり私たちのコミュニティやこの世界において抑圧され、沈黙せざる負えない、声を上げることを許されない声に耳を傾けるためなのです。
しかし多くの人が知っているように、この時代においてルールが今言ったような目的で使われることはあまりありません。そればかりか、ルールがこん棒と盾として使われることが非常に多く、ルールが権力者を守る一方で、権力者にとって厄介なマイノリティの悲痛の声を黙らせる鈍器として使われるのです。
私がこのことを経験したのは、子供の頃です。小さい頃から牧師になりたかった私は、子供の頃から教会がどのように機能しているかに強い関心を持っていました。教会に関することなら何でも知りたかったのです。ですから参加できる集会にはすべて出席し、そうでない集会は窓や鍵穴からその様子を覗き込んでいました。賢明な教会の長老たちが、教会の将来を現実のものとするために冷静に、理性的に討論した後で投票に向かうその姿に、私は畏敬の念を抱きました。
たとえ意見が合わなかったとしても、教会にあるルールとルールに従うプロセスを通して、教会がひとつのコミュニティとしてまとまっているように私の目には見えました。私はルールが果たす役割に畏敬の念を抱きました。私も確固たる意志を持つ若者として、自分も声を上げたいと思いました。
しかし、発言しようとした途端、子供だった私には 「発言の権利」と呼ばれるものがないことが判明しました。要するに、私は発言することを許されていなかったのです。その事を知った私は動揺し、思春期前のアメリカ人の少年特有の怒りと苛立ちでいっぱいにななりました。そこで私は、この「Priviledge of the Floor(発言する権利)」とは一体何なのか、そしてその権利を手に入れるにはどうすればいいのかを考え始めました。なぜなら、私は教会のミーティングに参加したかったのです。自分の声を聞いてもらいたかったのです。私たち全員が共有するこの素晴らしい教会コミュニティを形成する集合体の声の一部になりたかったからです。
ただ座って、様子を眺めて、自分以外の人間が決めることに耳を傾けるだけでなく、自分も議論に、教会を形造るプロセスに貢献したかったのです。
私は、教会会則、教会憲法、使い古されたロバート議事法の本、その他ありったけのものを教会内の図書館に持ち込み、数日を過ごしました。そしてその時間を通して、教会のミーティングにおいて私が子供だから発言することを許されていないのではなく、私が発言を許される教会員でないことが問題だということを突き止めました。教会員になるために何歳以上でなければならないという厳密な規則はありませんでしたが、教会の長老たちは教会員になるために参加が義務付けられるクラスを、成人未満の子供、青年が受けることを許可していなかったことを突き止めました。
私をよく知っている方はご存知だと思いますが、私は簡単に物事を諦めたりするタイプではありません。つまりその気になればかなりしつこくなれるので、自分が教会員になることを何度か嘆願したり、説得しようと試みた結果(私の話を聞くのにうんざりしていたであろう牧師から両親に何度かこの件に関して憤慨していると電話がかかってきました)、中学生だった私は牧師先生が直接私に、教会員になるためのクラスを一対一で教えてくれることになり、私はそのクラスを無事に合格し、教会員になることができました。
ついに!私は発言の権利を得たんだ!委員会で委員を務めることもできるし、ミーテイングで発言し、大切なグループの一員になれるのだ!私は興奮していました。教会員として奉仕する準備は万端だったのです。
教会員として参加した一番最初のミーテイングのことを今でも覚えています。私はエネルギーに満ち溢れ、積極的な姿勢であることに全集中力を注いでいたので、周りの長老や大人たちが私のその姿を見下した目で見つめ、自分自身が嘲笑の的になっていたことに全く気づきませんでした。私は必要書類にきちんと目を通し、思考を巡らし、議題に対して自分の意見を伝える準備ができていたのです。
私は議事録を片手に辛抱強く待ちました。そしてついに自分の番がやってきたので、発言するために席から立ち上がりました。すると議長は私を見て、年相応の慇懃な笑みを浮かべ、私が口を開く前にこう言ったのです。
「でも、これはかなり大人の問題だ。」
そして彼は採決を宣告し、私が一言も発しないうちにその議題に関する話し合いと投票を終えたのです。私は今でもその時思った事を覚えています。
「言われたことはすべてやったし、ルールにも完璧に従った。教会員にもなったし、発言する権利を得た。ミーティングでの発言権の特権を得たのに。。。なぜ発言できないのだろう?」
私が教会で発言しようとしたのはこの時が初めてで、きちんとルールに従ってミーテイングに参加しようとしたのもこれが初めてでした。この出来事は私を教会から遠ざけ、私はそこから教会に属し、教会員として活動することをやめ、そのような状態が10年続きました。
あの時、私に欠けていたのは未完了だった手続きではなかったのです。私が欠けていたものそれは会員資格でも、年齢でも、雄弁さでもなかったのです。
では何が欠けていたのでしょう?それは権力です。社会的な力、地位、特権でした。
私は、キリスト・イエスの献身的な奉仕者、キリストの体の一員として私たちの中で、話したくても話せない人たち(体の弱い部分にある人々)に声を発する機会を与えること、教会以外の集まりの場では聞いてもらえない人たちの声を聞くことができるようにすること、思ってみない人や、場所からキリストの声を聞くことが教会、そして特に教会のリーダー達の役割だと思っていましたが、私が目の当たりにした現実は全く違うものでした。
しかし、私は認識しています。私は他の人たちよりも辛い思いをしないですんできたということを。なぜなら私は性別、肌の色という点で自分が属するグループ以外の人よりは良い待遇を受けたからです。私が教会で発言権を得ようとして努力したことは不毛に終わりましたが、同じような状況を打開しようとしても、私が通ることができたプロセスを通れない、そのプロセスの出発点にたどり着けない人がいることも。
私の姉妹たちは、努力をしても笑われただけで、私がたどり着いた場所に着くこともできなかったのです。また、私たちが住んでいた街の大多数と有色人種の方々でしたが、そのグループに属する方々が教会に出入りし、会員になるということもありませんでした。
そして私は悟ったのです。教会の長老たちは、私に「正しい」やり方、「正しい」話し方、「正しい」賛成意見、「正しい」投票方法、「正しい」考え方を指導するために、私がまずは何年も黙ってただ会議の席に座っていることを期待していたのだと。でも私はそうなるために教会員になったのではなかったのです。私は変革の提唱者になりたかったのです。正義、恵み、慈悲を実現するために、変革を求める多くの人々の呻き声を拾い上げだかったのです。
しかしそれは長老が求めていたものではありませんでした。長老たちが望んでいた人材は、変化に対する防波堤、つまり物事が今までと同じままであることを耐え忍ぶために、自分たちの手で選び、練ることのできる新しい世代を求めていたのです。
その事を知り、権力に逆らえずに黙って座っているよりも教会を去った方がましだと結論づけたとき私は多くのひどい誹謗中傷にあいました。かつて家族ぐるみの付き合いをしていた長老たちは、私が教会を捨てただけでなく、神を捨て、悪魔に魂を売っているとまで言ってきたのです。
もちろん、私の経験は決して特別なものではありません。成長や変化を拒み、過去の過ちを振り返り、神が考えるより良い、より公平な未来を築くのに必要な声を受け入れようとしない体制に従属することを拒み母教会を去った者、キリスト教の信仰を捨ててしまった者がどれほどいるでしょうか。そして、こうした教会の指導者たちが、自分達の教会の「衰退」について、自分達の振る舞いを振り返るのではなく、現代の若者がいかに教会を「拒絶」しているか、そして神を「拒絶」しているかについて話をするのを何度見てきたことでしょう?福音を求めて教会にやってきた人々が、訪ねた教会で福音を目にしなかったために教会を去っていくという考えに対し、強い怒りを覚える人々を、私たちはどれほど目の当たりにしてきた事でしょう?
このような事は決して今の時代だけの話ではありません。今日の新訳聖書の聖書箇所には故郷に戻ったイエス様に対するナザレの人々の反応が書かれています。イエス様が語る福音の言葉が人々の不安を煽った瞬間から、イエス様を通しての神の言葉が耳に優しい言葉ではない事を悟ると、人々はイエス様に敵対し始めます。
神様の言葉は、私たちが快適と感じる領域外に存在する声によって宣言されているように思えます。
またエレミヤ書を見てください。エレミヤはまだ少年でしたが、神様は彼の人生が始まる前から、エレミヤが世界に蔓延る権力と特権に立ち向かい、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊しあるいは建て、植える」ように召された事を知っていました。エレミヤは神様に対し、 「私は若者にすぎません。」と応答します。すると神様は このように答えます。
そんなことは問題ではない。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、遣わすのだから。」
イエス様は故郷のナザレに遣わされた時、自分が矢面に立たされることを知っていました。困難に直面することを知っていました。地元の会堂は、彼の子供時代を知っている人々に溢れていました。しかし子供時代からイエス様が神様の言葉を宣べ伝える神童であることに気づいていながらも、人々は実際にイエス様が口を開くことを望んでいませんでした。イエス様は神殿の権力者達から「いや、ちょっとそれは。。。」と自分の話が遮られる事を知っていました。
イエス様は故郷に遣わされる前からそのことを知っておられました。しかし神様から与えられた御言葉を、忠実に、遠慮することなく、和らげることなく、縮小することなく、権力の中枢にいる人々が聞く準備ができるまで待つこともなく、宣べ伝えたのです。
預言者エレミヤが神様から言葉を与えられ、正義を全うするようにというメッセージを迫害と暴力に直面しながらも宣べ伝えたように、イエス様もまた、変革の呼びかけを宣べ伝えます。それまでの悪に満ちた行いに背を向け、神の正義と憐れみに立ち返ることを、聞く耳を持たぬ者たち、つまりイエス様のメッセージを脅威と捉える、現状維持を何よりも大切にする聴衆の前で語らなければいけなかったのです。そして結果は予想通りだったのです。イエス様の話を聞き人々は憤慨しました。イエス様を会堂から追い出しただけではなく、殺そうと町外れの山に連れて行ったのです。
自分自身の故郷で共に育った人々、教会の長老たち、母親が何回も夕食に招いた家族。イエス様が説教壇に立ち、イザヤ書からの言葉を朗読し、そこから神の言葉を宣べ伝えだけですが、人々は彼の死を望むほど怒り狂いました。
イエス様が朗読をした聖書箇所に書かれていた言葉はこうです。
イザヤ書61:1-2
主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
2主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
イエス様は2節の最後の一行を読みませんでした。なぜなら、イザヤがこの言葉を説いた時とは、状況が異なることを知っていたからです。イザヤは、軍事的な征服による残虐行為の犠牲者、抹殺されたイスラエルの民に対しての神様の言葉を説いていました。しかしイエス様の時代において、イスラエルも諸外国の占領下にありましたが、ローマ帝国によるイスラエル支配は主に経済的なものでした。そればかりでなくイスラエル政府と宗教指導者達はローマ政府に抵抗するのではなく、ローマ政府のようにイスラエルの貧しい人々からお金を搾取していました。当時の宗教指導者たちは更に、民衆の不満が自分達に向かないように、、民衆をローマ帝国の非情な占領者に集中させ、ローマ帝国という悪の帝国に対する復讐と報復に注意を向けさせようとしていました。
だからこそ、イエス様は2節の最後の部分にある「神が報復される日を告知して」という部分をあえて読まず、今が主がお恵みをお与えになる年と宣べ、そこで朗読を終えたのです。主がお恵みをお与えになる年、そうジュビリーです。今日というこの日に虐げられている人々には良い知らせがあり、今日という日に心砕かれた人々の痛みが和らげられ、今日というこの日に捕らわれ人々に自由が与えられ、そしてその負債が赦される。
今日というこの日に、抑圧されていたもの達の苦しみのうめき声が聞かれるのです。
権力者が正義を嫌うのはどうしてでしょう?それは公正な社会では、抑圧者を容認せず、不正を許さないからです。なぜなら、正義を行うということは、押しつぶされた者の声を拾いあげ、蚊帳の外にいる人々つまり弱者、アウトサイダーを迎えいれる事を意味するからです。曲がった道をまっすぐにし、荒れた場所を平らにすることが求められるからです。権力が正義を嫌うのは、公正な世界が天上にあるように地上にもある事、つまりライオンが子羊と一緒に寝ることを許さなければいけないからです。さあライオンは子羊を守るために立ち上がらなければいけません。子羊のカツレツを安く売って私益にすることはできないのです。
何が正しくて何が間違っているのか?どの声に耳を傾け、どの声に耳を傾けないのか?億万長者たちは華美な装飾が施された特注の演壇に立ち、自分たちこそが真の被害者であると全世界に語りかけます。政治家たちは自家用ジェット機で国内外を飛び回り、意見の不一致や自分が掲げる政策に反対するもの達により、いかに自分たちが虐げられているかを声高々に叫びます。政治家だけなく、宗教指導者たちもそうです。福音派の指導者たちは説教壇に立ち、指導者に、権力者に物申すことがどれだけ神の御心に背いているかを繰り返し叫びます。自分達は被害者だと。
しかしイザヤ書の言葉をイエス様を通して聞く時、私たちがしなければならない働きが明確になります。それは真の被害者ー抑圧に苦しむ人々に真の福音・良い知らせを届け、傷ついた心を癒し、正義と愛を持って権力者達に消されたすべての声が聞かれるように召されている高めるように召されているとしたら、どの声に耳を傾けるべきなのでしょう?議場の場において、誰が発言する特権を持つのでしょう?それをどうやって決めるのでしょう?神の正義と権力者の利己的な欲望がぶつかり合うとき、私たちはどのようにして正義の側に立っていることを確認することができるのでしょう?
使徒パウロはこのように言っています。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。(第一コリントへの手紙13:1-10)
日々たくさんの声を耳にする中で、どの声が愛の言葉を語っているのでしょうか?自問してみましょう。どの声が忍耐強く、情け深い言葉を語っているのでしょうか?自分の利益を求めず、不義を喜ばずにいる声はどの声でしょう?自分の意図に合うように言葉をねじ曲げるのではなく、真実だけを叫び続けているのはどの声でしょうか?神の正義が実現するために、あらゆることに耐え、絶え間ない希望を抱き、すべてを信じようとしている声はどこから聞こえてくるのでしょうっか?
そしてどの声が、権力と特権に固執し傲慢で、苛立ちと非難に満ちた声なのでしょうか?
発言する権利を与えられない人々。沈黙のテーブルに座るよう招かれた人々。正義を叫ぶ神様の明確な呼びかけに対し、黙っていられないと立ち上がり声を発しようとする時、彼らは権力者にこうねじ伏せられるのです。
「いやちょっとそれは。。。」
だから私たちは聞くべきなのです。聞くことをやめるべきではないのです。私たちが考え直すきっかけをくれる声、あるいは新しいと感じる声に耳を傾けるべきなのです。なぜなら、私たちが愛することを選ぶ限り、これらの声を通して私たちは神様からのメッセージを聞くことができるからです。
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