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  • Rev. Don Van Antwerpen

「知らないことすら知らないということ」

ヴァンアントワペン ドナルド牧師

Unfinished Community

2024年5月5日

使徒言行録8:26-40

アメリカのテレビ番組『ブーンドックス』に登場する俳優サミュエル・L・ジャクソンは、私たちが人生で直面する問題の一つ、「未知」の物事に対して次のように語ります。


「私たちは知らないこということすら知らない。」


これはアメリカのイラク侵攻を正当化するために、当時の国務長官ラムズフェルドが記者会見で放った言葉を皮肉ったセリフです。イラク政府がテロリスト集団に大量破壊兵器を提供している確たる証拠がないにも関わらず、アメリカがイラクに侵攻したことをラムズフェルドはこのように説明し正当化しました。


「何かがなかったという報告は、いつ聞いても面白い。知ってのとおり、知られていると知られていること、つまり知っていると知っていることがあるからだ。知られていないと知られていることがあることも我々は知っている。言ってみれば、我々は知らない何かがあるということを知っている。しかし、知られていないと知られていないこと、つまり、我々が知らないと知らないこともある」


彼の発言はある意味では完全に正しいが、別の意味では恐ろしく間違っていることを表す良い例であることは間違いありませんが、そのことはさておき、「私たちは知らないということすら知らない。」という問題に対し、信仰を持つものとして、どのように対処すれば良いのでしょうか?つまり、自分の知らないこと、理解できないことをどのように扱えばいいのでしょう?


今日の聖書箇所であるエチオピアの宦官の話は、「知らないということすら知らない」という問題にどう対処すべきかを示す最も良い例の一つであるにもかかわらず、私たちはしばしばこの箇所を読み飛ばしてしまいます。この箇所は聖書日課の一つに載っているにも関わらずです。この箇所は先週の聖書日課の一つして記載されていましたが、ああくまでもサブテキスト、副次的な任意の箇所として扱われていました。


私たちの多くにとって、このフィリポとエチオピアの宦官とのやりとりは、単なる脚注としてのお話しに過ぎません。伝道者フィリポ(12使徒の一人フィリポとは全く別の人物です)が、偶然出会ったエチオピアの宦官に対し、復活したイエスキリストの福音を宜べ伝える。フィリポが誰にでも復活したキリストの知らせを伝えようとどれほど興奮していたかを強調するお話し。もちろんいいお話しだが、そこまで重要な話ではない。多くの人がそう思っているのではないでしょうか?


しかし、このお話しは単に重要であるだけでなく、私たちに命を与えるお話しなのです!


いつだったか。私が子供の頃、このお話しが教会で話題になったことがあります。それでもたった一度だけでした。それは青年会で行っていた聖書の学びでのことでした。私はこのお話しに興味を持ちました。もっと知りたいと思いましたが、青少年の聖書研究での扱いはこのようなものでした。他の子供たち(そして正直に言えば、大人のリーダーたちもですが)はエチオピアの宦官をからかいました。彼らにとって、この登場人物は高官とは似ても似つかない奇抜な格好をした、田舎者の、喜劇の主人公だったのです。彼らにとってこの宦官は軽蔑の対象であり、笑いものであり、神様の言葉を自力で理解することができないことを嘲笑される対象だったのです。「フィリポがそこにいてくれてよかった 。出なければ彼は福音を知ることができなかった!」と、青年リーダーたちはそのように言いました。


私がこの聖書箇所について学んだ機会は、この一回きりでした。10代前の聖書の学びから20年後に神学校で学ぶまでの間、そのたった一度きりのことでした。しかし長い間、この聖書箇所のことを考えるたびに、私の心はひっかかっていました。青年会のグループがこのお話しを笑いの対象として扱ったこと、上から見下す態度で宦官を見たことが、頭の片隅に引っかかっていました。この聖書箇所には他にどんな神様からのメッセージがあるのだろうか。自問していました。


そうわからなかったのです。


もちろん、わからないことはわかっていました。知らないことを知っていました。そこに何か欠けている情報があり、その情報が私の手の届かないところにあると感じていました。子供の頃は、それを言葉にすることができなかったので、今日のお話が聖書の中ではユーモアとして取り扱われ、私にはよく理解できない、当時の歴史を反映した保守的で残酷な時代の時のお話の名残りなのだろうと思っていました。


しかし、神学校に行き、聖書についてより多くのことを学ぶうちに、この物語の中で叫ばれている福音の真理を見ることを妨げていた「未知の未知」つまり「知らないことすら知らない」ことの情報が何であったかを理解することができました。そして、それはとても単純な情報だったのです。その聖書研究会に参加していた子どもから大人まで自分を含め、理解しているつもりでいたが、私たちは皆、まったく、完全に、滑稽なほどわかっていなかったのです。


私たちは宦官とは何なのか、まったく理解していなかったのです。


もちろん、当時はわかっているつもりでした。宦官を示す言葉を英語ではEunuchと言います。つまりその言葉から、エチオピアのEunuchを聞いて、その人物を下層階級の奴隷として、裕福な社交界の女性などに奴隷として売られた結果、去勢され、生殖器官を取り除かれた男性のこととして、その人物を見ていたのです。このような宦官の定義は、かつて歴史上に存在しましたが、それはイエスキリストの時代より何百年も、いや何千年も前のことであり、またイスラエルに近い場所における文化のものでした。


しかし、ここで扱っている話はそのような時代背景のことではないのです。今日のお話に出てくるEunuchはエチオピアから来ました。今日の聖書箇所に出てくるエチオピア出身のEunuchとフィリポの出会いはガザで起こりました。そのことも非常に重要なことなのですが、エチオピアからガザは1,500から1,600マイル(約2,500キロメートル)離れています。つまりこの人物は前述したような宦官の歴史を持つ場所の出身ではないのです。

さらに、彼は、27節ですぐに大きな権威を持つ人物として言及されています。彼の地位は、少なくともNRSVUE訳では 「宮廷の役人 」とされていますが、それさえも少し不正確な訳なのです。彼の立場を表すギリシャ語はδυνάστης(ドゥナステイス)であり、これは王子や権力者のような位をさします。王族とまではいかなくても、少なくとも王宮の高位のメンバーの一人なのです。


ということは、彼は去勢された奴隷ではないということです。


ということは...この人物は誰なのでしょう?


まず、εὐνοῦχοςという言葉の意味から説明したいと思います。日本語では主に「宦官 」と訳されている言葉です。英語の 「宦官 」の語源はここから来ています。英語では 「宦官 」は、痛みを伴う特殊な外科手術の犠牲となった奴隷を指します。しかし新約聖書が書かれたギリシア語では、この用語は、結婚と出産という社会的・経済的構造から自然に、あるいは自発的に遠ざかることを選んだ人を意味します。つまり奴隷という意味はありません。


当時は、「男」という意味、「女」という意との定義が非常に狭いものでした。男でいるというのは、妻を買う意思と能力があり、肉体的には子供を産む能力があり、精神的にも経済的にも社会的にも一家の長になる意思と能力がなければなりませんでした。女でいるという事は、男性主導の社会の財産になるということ、それは単純明快なことでした。


しかし誰しもがそのような狭い定義に当てはまるわけではありません。子ども、奴隷、囚人はこのような定義に当てはまりませんが、それぞれの定義に当てはまる言葉が存在します。しかし、子供を持つ能力を持たずに生まれてきた人や、そのような狭い男女の定義の下で生きることが耐えられない人を何と呼べばいいのでしょう?所有物として存在することに耐えられない女性として生まれた人や、家庭の中でくつろぎたい男性として生まれた人を何と呼ぶでしょう?同性にしか惹かれず、それゆえに生殖できない人を何と呼ぶでしょう?


ギリシャ人なら、答えは簡単です。ギリシャ語ではそれらの人々をすべてεὐνοῦχοςと呼ぶのです。εὐνοῦχοςが意味するその大半は、現代に生きる私たちにはLGBTQIA+コミュニティという言葉で置き換えられるでしょう。LGBTQIA+コミュニティの人々は、当時のエチオピアの友人と同じ生き方をしているわけです。社会が強いることにした奇妙で狭く、窮屈なルールに関係なく、神様が自分達を作った最高の模範として自分自身の人生を生きているのです。


では、エチオピアのεὐνοῦχος・友人についてこのようなことがわかったとしたら、つまり彼が実際には、エチオピアの宮廷の一員として幸せで立派に暮らしていたトランスジェンダーのような人物であったとしたら、この聖書箇所自体の理解はどう変わるでしょうか?


まず、フィリポがこの人物に出会うために神様によって特別にガザに遣わされたという事実を読み飛ばさないようにしましょう。同時にフィリポは、ギリシャ文化とユダヤ文化が激しく重なり合っていた地から来たキリスト信者であり、多様性の中で人々はどのように見え、どのように振る舞い、どのように行動すべきかということについて、非常に幅広い理解を持っていたと思われます。しかしそんな彼さえも、今日の聖書箇所に出てくる出会いを想像できたのでしょうか?1,500マイルも離れた国から来たトランスの人物が、王族の衣装で身を包み、イザヤ書を読みながら馬車に乗っているのに出くわす。


なんということでしょう?故郷の裏通りをぶらぶら歩いていて、角を曲がったら英国首相に出くわすようなものですよ!びっくりするでしょう!


しかし、ただ単に予想外だったという点だけでなく、フィリポには自分が出会った人物について理解する定義を持ち合わせていなかったから、さらにこれは驚くべきことなわけです。仮にフィリポが彼を王族だと認識できたとしても、彼の肌の色、男女の枠を超えた性別、身体的特徴など、この人物のすべてがフィリポの想像と理解を覆すものであったでしょう。


彼は自分が何を見ているのかわからなかったはずです。


彼の目の前には、明らかに明らかな、未知の未知、そのことを表す人物がいました。そして、今日の聖書箇所のの学びで混乱を覚え、ただじっと座っていた10代の混乱した私のように、彼は自力で目の前に現れたこの人物を理解するために必要な情報を何一つ持っていなかったはずです。


しかしその瞬間、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言います。(29節)そこでフィリポは行き、すぐにイザヤ書を読んでいるこのトランスの、εŐνοῦχοςを見つけます。不正を侮辱し、帝国を非難し、神様が善と呼ばれた人々が負われた不当な沈黙について長年説教している預言者イザヤの言葉を耳にします。


フィリポは耳を傾けます。


フィリポは彼を非難しませんでした。頼まれるまで説き明かしもしませんでした。このエチオピア人がいかにギリシャ社会のあり方、やり方に自分を合わせなければならないかについて、説教したりすることもありません。フィリポは耳を傾け、彼に尋ねます。招かれるのを待ち、招かれたときには、悔い改めない人々に自身のやり方を変えるよう説得しようと固く決意した厳格で道徳主義的な先生としてではなく、社会と文化のあらゆる壁、地理や国家、さらには私たち自身の先天的な偏見によってもたらされたあらゆる壁を越えて、その壁の向こうに同胞を見出した人のような喜びと興奮をもって福音を伝えたのです。


彼の友人としてフィリポは福音を伝えたのです。


友情を育む中で、フィリポはこの男と、イザヤが説いていた預言を成就するために来られたキリスト・イエスの物語を分かち合います。彼は、キリスト・イエスの恵み、憐れみ、そして何よりも愛について彼に伝えます。それは、規則に従った選ばれた数人に与えらる神様の愛ではなく、私たちがその愛に値するかどうかにかかわらず、私たち一人ひとりに惜しみなく与えられたものなのだと。私たち皆が永遠の命そのものを得ることができるように、神のひとり子を遣わされたほどに世を愛された神様の、偉大で素晴らしい物語を。


この素晴らしい話を分かち合うのは、祭壇へ呼びかけるためではありません。イエスキリストを信じなさいと言うわけでもありません。ただ、知っていること、わかっていることを分かち合う。それだけです。


そしてその瞬間、二人は知るのです。フィリポは、神様が彼に見させようと意図されことを。キリストの愛は、私たちが自分たち人間のために作るちっぽけな境界線をはるかに超えて、性別や文化や習慣の壁をはるかに超えて広がっていることを。そしてエチオピアの友人は、神様の正義と公正が成就するという約束が、愛を持ってやってきた道を共に歩む同胞の真の信者のうちに明らかにされるのを見たのです。


「知っていると知っていることがある。知られていないと知られていることがあることも我々は知っている。しかし、知られていないと知られていないこと、つまり、我々が知らないと知らないこともある」



既知の既知があり、既知の未知があり、未知の未知があります。


しかし私たちが聖霊の呼びかけを受け入れ、非難よりも愛のうちに、恐れよりも喜びのうちに、救い主よりも友として目の前の人々の方へ歩み出すとき、これら3つのことはすべて消えます。


私たちの神様からの使命は、私たちが遣わされる人々に対し、私たちの神の理解に合わせてそれらの人々が変わることを要求することではなく、人々と共に歩むことである。

友人として。

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