2025年1月19日
Unfinished Community
イザヤ書62:1-5
今日の新約聖書の聖書日課は、第一コリント人への手紙12:1-11です。聖書に馴染みのある方々はパウロが霊的な賜物について触れているところと言えば、ピンと来るのではないでしょうか?「賜物にはいろいろありますが、それを与えるのは同じ霊です。」(第一コリント人への手紙12:3)の箇所です。
私たちの教会も含め、教会は常に人手不足ですから、自分に与えられた賜物に関するこの聖書箇所は牧師としてはとてもありがたい聖書箇所です。賜物を通して教会に仕える、何度でメッセージをしたくなるトピックです。
しかし、今週の礼拝に向けて準備をする中で私の肉の思いとは反対に、私が引き寄せられた聖書箇所は、霊的な賜物に関する聖書箇所ではなく、預言者イザヤ書でした。
ご存知ない方もおられるかもしれませんが、明日20日はアメリカの大統領就任式です。米国の政治権力が現政権から去年の11月に投票された政権に切り替わる日です。私も含め、多くの人々が、これから起こることを思うとき、忌まわしい恐怖と不安に包まれると思います。それと同時に、全ての人がこのような思いを抱いているとは限らないということも自覚しています。
明日から政権を握る人々は、かつての偉大なアメリカについての物語を紡ぎ、そのことを民意に訴えてきました。素晴らしく美しい、平和なかつてのアメリカを取り戻そう!私たちが振り返り、以前のように戻れば、再びアメリカは偉大な国になれると国内だけでなく、世界の人々に向けて語ってきたのです。
そして私たちは今、このかつての偉大なアメリカに戻る崖っぷちに立たされています。女性の権利、LGBTQIA+の権利、富に溢れる白人のシスジェンダー(異性愛者)の男性以外の権利を完全に消滅させる法案がすでに準備されているのです。その法案が通るようにと準備がすでになされているのです。
大きな家、家を守る専業主婦の妻、子供たちが広い庭で遊び戯れるというアメリカンドリームがついに、偉大なアメリカという地に凱旋する。その歓喜を共に味わおうではないか!歓喜の扉を共に開けようとはないか!
そのような呼びかけが私たちを待っています。
しかし、私たちが歓喜と呼ばれる扉を開いた時に本当に見るもの、私たち全員が本当に見つけるものは何だと思いますか?
それは破滅です。輝かしく語られてきた真新しい大きな煌びやかな家々がそこにあるのではありません。そこに連なるのは廃墟の山々なのです。
しかしこれは新しい話でもないし、アメリカに限られた話でもありません。今日の聖書箇所に出てくるイスラエルの民は、何十年もの長い間、捕囚の民として、バビロン帝国という異国の地に連れ去られた後、ようやく故郷エルサレムに帰還します。何十年にも渡り、異国の地で捕囚として自身の民と共に生きながらえたイスラエルの指導者たちは、偉大で黄金の都エルサレムについて、創造主である神によりイスラエルの人々に与えられた乳と蜜の流れる約束の地について、民に語り続けました。 バビロン帝国で権力を握るカルデア人の足元で生活し、征服者たちの抑圧に苦しんでいたイスラエルの民。長いバビロニア捕囚が終わると、バビロニアはアケメネス朝ペルシア帝国の支配下に置かれます。するとペルシアのキュロス大帝は、人々の意に反して、捕囚としてバビロニアにいたイスラエルのすべての人々を彼らの故郷のエルサレムの地に送り返すことを決めます。
それは母国に戻ることを待ち望むイスラエルの民にとって、神の摂理のように感じられた出来事に違いありません。
長い間、何世代にもわたって聞かされてきた完璧で美しい、乳と蜜の溢れる約束の地とされる故郷エルサレム。神からイスラエルの民に約束された、神の約束によって永続的に自分達に与えられた地に戻り近づく時がついに来た!想像できませんか?人々が感じていたに違いない興奮と純粋な喜びを。
しかし、やっとの思いで戻った約束の土地。そこに夢見た黄金の都や、伝説の乳と蜜の故郷はありません。そこにあるのは、2つの異なる帝国によって荒れ果て、すさんだ土地と、最後まで抑圧をやめずに、我が物顔で立っている権力者。これが帰郷した人々が直面したエルサレムの現実でした。
握り続けてきた約束の地への期待。けれどそこに残されているのは、灰と破滅のしるしだけ。そしてその破滅の現実が自分達自身の罪によるものと自覚する瞬間がやってきたのです。そう、自国の破滅はバビロニアやペルシャ帝国によるものではあったが、それは自分達自身が導いたことであったということを。
イスラエル王国を治めた賢者と呼ばれるソロモンは実に多くのことを成し遂げました。しかしその功績は彼が賢くて優れた統治者ということを証明しませんでした。ソロモンは父のダビデから譲り受けたイスラエル連合王国という帝国を、富を築き、富を浪費する所へと堕落させたのです。ソロモンの治世のもと、富裕な権力者たちはかつてない地位と支配力を手にし、それを利用してできる限りのものと人を奪い、搾取します。貧困層への課税は高まり、貧富の差は拡大し、やがて事態は手に負えなくなります。そして人々の不安は増大し、国は不安定になります。ソロモンが死に、息子が後を引き継ぎますが、彼は父の支配を決定づけた富と権力の行き過ぎに歯止めをかけようとはしませんでした。結果、イスラエルは内部分裂し、他の帝国に征服されます。偉大な国家イスラエルの繁栄を追い求めた結果、むしろ自分達に約束された地を追われたのです。
イザヤ書の言葉が重要なのはこのためです。それはイスラエルに起こった本当のことを解き明かし、変革を呼びかけているからです。イザヤは、かつての栄光が跡形もなく消え去った地において、イスラエルが再び富と特権を手にするとは言いません。かつてあったものの再生を約束してもいません。その代わりイザヤはイスラエルが神により変容することを説きます。イスラエルはかつてのように鉄と金で人を支配する王により治められるのではないことを。
イザヤが人々に語っていること、絶対に黙らずに説き続けること、それはイスラエルは以前のようには戻れないということでした。イスラエルの王政は、神が喜ぶものではなかったからです。ソロモンの息子レハブアム王は、重税と重労働に憤慨して変化を求める民の呼びかけに耳を貸そうとせず、ソロモン王は私欲のために散財堕落しました。ダビデ王は姦淫し、殺人を犯し、さらには自分の息子に戦争を仕掛け、サウル王は神に背き、私利私欲のために大量虐殺を行いました。そのような王を歴代の王とする国に戻ることはないとイザヤは説きます。
イスラエルを再び偉大にする方法はない。なぜならイスラエルが偉大だったことはないのだから。神の目に、かつての王達が築き上げた繁栄は繁栄に映らなかったのだから。
イスラエルがイザヤの言葉を聞き入れ、神をパートナーとして選び、富に溺れ、権力に執着する男性性の国の治め方を捨て去り、主を喜びとする、主を何よりの装飾としてまとう美しい女王としての国政ヘとすぐに変貌を遂げたと伝えられたらどんなによいでしょう。しかし、もちろんそうではありませんでした。
帰郷の次に起こったことそれは、新たな偏見から来る権力争いでした。捕囚の民は、自分達が異国の地に追いやられても神の民として他の民とは交わらず民としての純性を保ってきたことを誇り、エルサレムに残ったもの達を非難し始めます。入植者や支配者の民と交じり、堕落したと、自分達と異なる状況にいたもの達が置かれた状況を顧みず、自分達の正しさを主張をし始めます。バラバラに散らされたもの達が再び一つにされたという創造主の祝福を喜ぶ代わりに、互いに敵対する言動を始めたのです。
この2つのグループの間の敵対関係は解消することはなく、長い間続きます。エルサレムに残り他の民族と交わったサマリア人への偏見はイエス様がそれを正した後も続きました。
権力を求めるにせよ、抑圧に反発するにせよ、社会が機能しなくなる時、人間は皆同じ行動を取ろうとします。社会の不機能を変革への呼びかけとして、新たな一歩を踏み出すのではなく、むしろかつての栄光、かつての繁栄を取り戻そうと盲目的に突っ走ろうとするのです。権力や富が違うところに集中すれば、今度こそ大丈夫だと。
しかし、真実はこうです。
もし私たちが、私たちの国が、私たちの世界が、コミュニティがかつて真の意味で偉大であったなら、今も偉大であり続けているだろうということです。なぜなら今の姿は、自分達の過去の行い、働きによって形造られてきたからです。
多くの人々が戻りたがっているアメリカとは何なのでしょうか?それがある政党が政権を握っていることなのでしょうか?アメリカンドリームが実現されていた時代のアメリカのことなのでしょうか?けれどそのようなアメリカは実際には存在しなかったのです。奴隷主の鞭打ち、警官による暴力、医療ケアが受けれない人々の苦しみ、片足を突っ込みますます泥沼化する世界中の戦争と紛争。これらは国の指導者が赤いネクタイをしているか青いネクタイをしているかで解決したり、軟化するものではないのです。
私たちの今、私たちの国の今は、私たちが何者であったか、誰であったかにより作られたものです。けれどこれからの私たちがそれまで通りである必要はありません。
私たちがすべきこと、それはこれまでの私たちのアイデンティティを放棄し、変容を受け入れ、神が私たちを新しい別の名前で呼んでくださるようにすることです。
脅威的な変化が私たちの目の前にあり、襲いかかるとき、それは恐ろしいことであり、私たちは何を具体的にしたら良いのかわからなくなります。私たちは、崖っぷちから急降下している者のようです。ほんの少し手を伸ばせば、ほんの少し後方を掴めば、そこから縁を掴んで自分を引き上げることができると自分自身を納得させようとしています。
私たちが引き上げられるのに本当に必要なのは翼なのに、私たちはより長い腕を求めて祈っているのです。
神が変革を呼びかける時、後戻りはできません。私たちの未来が正義と慈愛に満ちたものと神がされる時、私たちの未来はかつて経験したようなものでもなく、私たちが知っているようなものでもありません。
そのような未来を築くことは、今までの在り方、生き方では機能せず、むしろそれは居心地が悪くなるということなのです。なぜなら今までとは異なるものが造られなければならないからです。
革命へと繋がる成長、変化、再生。イエスにあり生まれ変わるとはそういうことなのです。
神が望むより良い世界つまり、この世において神の国を築くために、私たちは今までの私たちであり続けることはできません。私たち人間が私利私益を優先し、優先順位を間違えたせいで、この世の中は燃えさかっています。私たちは富と権力と特権を追い求めるのをやめ、資本主義とゼロサム思考(1人の得がもう1人の損を意味するという判断)の原則を拒否しなければいけません。かつての繁栄の姿を追うのではなく、神が望む、神が喜ばれる姿をこの世にもたらせようとしている今のこの変革の時を受け入れる必要があります。
私たちが望む、望まないにかかわらず、変化はやってきます。もうすでにやってきているのです。私たちは、焼け野原になり、破滅を迎えるエルサレムに近づいています。神が今が変革の時とされているからです。ですから廃墟の中にこだまする神の声、イザヤの声に今耳を傾け、その声に聞き従おうではありませんか?
イザヤ書58:9b-12
軛を負わすこと、指をさすこと
呪いの言葉をはくことを
あなたの中から取り去るなら
10飢えている人に心を配り
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出で
あなたを包む闇は、真昼のようになる。
11主は常にあなたを導き
焼けつく地であなたの渇きをいやし
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
12人々はあなたの古い廃虚を築き直し
あなたは代々の礎を据え直す。
人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び
「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
あなたが今どこにいようとも、私たちのあがないが夜明けのように輝き、私たちの救いが燃え盛るたいまつのようになるまで、私たちは黙ってはいけないのです。私たちは、変革のために、変化のために、成長のために、黙らずに語り、行動することが求められています。私たちは正義を行い、親切を愛し、神とともに謙虚に歩み続ける時、神の子として神が与えてくださった新しい名前、つまり「道を直して、人を再び住まわせる者」という名を真に名乗ることができます。
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