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Rev. Don Van Antwerpen

「誰の権威に基づいて?」

ヴァンアントワペン ドナルド

Unfinished Community

2024年1月7日





[イザヤ書60:1-6 &マタイによる福音書2:1-12]


期待というのはおかしなもので、特に権威者のこととなるとなおさらそう思います。私たちは

権威のある人に対して、ある種の言動、ある種の外見を期待します。私たちが王様のあるべ

き姿を考える時、私たちの頭の中には、王様特有の言動パターン、また逆に言えば、王様ら

しからぬ言動も含めたイメージが即座に形成されます。私たち人間はあらゆる人々に対し

て、人々が担う役職特有のイメージを形成し、期待する生き物です。CEO、資産家、職場の

上司、自分達の両親。それぞれの役割に特化した言動をこれらの人々に期待します。もち

ろん牧師も例外ではありません。私は地域社会や世界における神様の偉大な働きに参加

するために、白人の男性牧師に課される期待がどのようなものかを理解した上で、その期待

に応える、もしくはその期待を破ることに抵抗はありません。私はそのように牧師としての働

きを努めてきたつもりです。

しかし、どのような立場であれ、私たちが自分自身も含め、それぞれの人間に抱く期待という

のは、「権威」というのがどのようなものかという理解から影響を受けています。権威は権力・

権限の一部であると、私たち人間は理解しています。権威とは、命令の権限を持って行動

し、放つ言葉の一言一言の中に確信があり、その言動が世界の人々に聞かれるだけでな

く、優先され、放つ言葉が現実のものとなっていくことを意味します。権威を持つ人とは、疑

いようもなくリーダーであり、尋ねるよりも指示し、議論するよりも却下し、ありとあらゆることに

おいて、注目の的になる人のことを指します。

権威を持つ人というのは、多くの場合自分が行使できる特権は神様が自分にもたらした祝

福だと信じ、そのことに疑問を抱くこともありません。その特権からくる権威は自分のものだと

強く信じて疑わないのです。今日の聖書箇所をみてみましょう。そこには神様の権威と、人

間の権威に関しての記述があります。

「あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現れる。」

(イザヤ書60:2)

この箇所を読むとき、私たちは神様の栄光が権威のある者達に対して、このようにもたらさ

れ、「海からの宝があなたに送られ国々の富はあなたのもとに集まる。」(イザヤ書60:5)とい

う期待を権威のある人々に抱くわけです。「国々はあなたを照らす光に向かい王たちは射し

出でるその輝きに向かって歩む。」(イザヤ書60:3)

権威を持つ人々がこのような特権を与えられていることを私たちは容易に想像することがで

きます。ですから、マタイの福音書に目を向ける時、福音書の今日のお話の中で、権威を

持っているのはいったい誰なのかという質問に答えるのはとても簡単なことです。

それは明らかにヘロデ王です。

ヘロデ王は、神様の寵愛を期待し、その期待を前提に行動する者であり、口から放つ言葉

は現実のものとなり、自分が抱く欲望が王としての権利によって満たされることを知っていま

す。権利をもつ権威者として話し、振る舞います。彼が放つ言葉の端々に、支配欲が漂いま

す。彼は占星術の学者たちを自分のもとに呼び寄せ、自分が欲している情報を学者たちか

ら引き出し、学者たちが王としての自分の命令通りに行動することを確信しています。ヘロ

デ王は「行って、その子(幼子イエス)のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わた

しも行って拝もう。」(マタイによる福音書2:8)と学者たちに、王としての権威を持ち命じま

す。結局のところ、全世界で起こる物事の権力を握り、その権力を行使する権威を持ってい

るのです。

それとは対照的な占星術の学者たちの振る舞いをみてみましょう。英語では占星術の学者

たち(Wisemen)ことを「Magi」(マギ)と呼ぶことが多いのですが、英語をよく知っている人な

ら、この言葉が「Magic」(魔法) や「Mage」(魔法使い)と同じ語源であることを知っているで

しょう。しかし占星術の学者たちは魔法使いだったわけではなく、占星術に関して学識のあ

る学者たちであり、ある種の地位も築いていましたが、政治家でもなければ、出身国におけ

る支配カーストの一員でもありませんでした。

学者たちはある種の宗教指導者だったのです。詳しく言えば、神様への崇拝に加え、占星

術を組み合わせた古代の信仰実践のための宗教指導者でした。占星術の学者たちは、神

様を崇拝していたので、この学者たちを天文学者と呼ぶのは正確ではないでしょう。やはり

「占星術の学者」と呼ぶのが適切でしょう。ただ占星術の学者として星に対する科学的な知

識に加え、宗教的な畏敬の念も持ち、そして神秘的とも言える鑑識眼を持って星を観察して

いたのです。

ところで、ユダヤの伝統や慣習をまったく知らず、また神に選ばれたユダヤ人(イスラエルの

民)の歴史や物語をまったく知らず、聖書の物語との直接的なつながりもまったくない異邦

人(非ユダヤ人)の占星術師たちが、ただ空を見てユダヤ人の王(すなわち幼子イエス)が

生まれたことを見抜くことができたという事実について、ここではまったく別の説教がなされる

べきでしょう。占星術の学者たちは私たちと同じように神様のことを知らず、神様の歴史を学

んだこともなく、神様の物語を聞いたこともなく、メシア(救世主すなわちイエス様)が誰であ

るかも知りませんでした。天使が現れて、何が起こったのかを教えてくれるわけでもなく、神

様の御子の誕生が告げられたわけでもなかったのです。

ただ星と、星が現れる時に、それが何を意味するのかを理解していた学者たちが数人いた

だけです。今日のマタイによる福音書のお話しは、ヘロデ王と東方から来た占星術の学者

たちの話です。権力者がよくするように、ヘロデ王がまず最初に言及されます。しかし今日

のお話がヘロデ王の物語ではないことがすぐにわかります。ヘロデ王は権力者でありなが

ら、3人の占星術の学者たちがエルサレムにやってきて王に質問を始めるまで、メシアが生

まれたことにまったく気づいていなかったのです。ヘロデ王はその時初めて、自分の宗教顧

問たち、つまりイスラエルで最も優秀で聡明な、最も教養のある「民の祭司長たちや律法学

者たちを皆集めて」(マタイによる福音書2:4)何が実際に起こったのかを尋ねます。

ヘロデ王は怯えます。物語はまだ始まったばかりなのに、ヘロデ王はすでに王としての権威

が脅かされていることを悟ったのです。占星術の学者たちは、興奮と好奇心を抑えられず、

エルサレムの町に出てきてヘロデ王に質問をしただけです。ヘロデ王が答えを持っているこ

とを期待して。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でそ

の方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイによる福音書2:2)占星術の学者たちは

このように尋ねます。しかし、ヘロデ王は、その質問を聞き、不安を抱きます。王としての絶

対的な権威が脅かされていることを悟ると、王様らしからぬ振る舞いを見せるのです。ヘロ

デはおとなしく、不安と恐怖の中で陰謀をこっそりと企てる、小心者の男の子になってしまい

ました。

そして次に何が起こるか、聖書箇所を読み進めてみましょう。ヘロデは占星術の学者たちを

呼び寄せ、いい王様のように振る舞い、こっそりと企てた自分の計画に学者たちを組み込も

うとします。ユダヤの王である幼子イエスがベツレヘムにいることが預言されていたことを学

ぶと、占星術の学者たちに対して、ベツレヘムに行き、幼子イエスのことを詳しく調べ、終

わったら戻ってくるようにと、王としての命令を学者たちに下します。(マタイによる福音書

2:8)

しかし考えてみてください。空にあったのは輝く偉大な星だったわけです!ヘロデが上を見

上げれば、その星に気づいただろうし、その星がいつ現れたかを知るために、王としての権

力を行使し、権威に頼れば、必要な情報は手に入ったでしょう。占星術の学者たちの発見

は、ヘロデには隠された秘密や得体の知れない知識ではなく、時間をかけて探せば自分で

見つけられたはずのことでした。

占星術の学者たちは、王族に期待されるような外交官としての振る舞いではなく、ただ星を

頼りに出発し、星に導かれ、幼子イエスがいる場所へと向かいます。そして星が幼子イエス

がいる場所の上に止まった時、学者たちは喜びにあふれます。(マタイによる福音書2:10)

学者たちはもちろん、メシアがどういう方なのか、全く知りませんし、預言やダビデの血筋の

意味、高き場所から御告げを知らせる天使たち、羊飼いたち、その他のことなど気にも留め

ていません。そのようなことに関する知識はありませんでした。学者たちはただ自分たちが

知っていること、信じていることに忠実だったのです。

すると創造主である神様が、神様であり、人間であるイエス様の目を通して世界を見つめま

した。その神の御顔を垣間見、心に喜びがあふれた学者たちは、「ひれ伏して幼子を拝み、

宝の箱を開けて」(マタイによる福音書2:11)贈り物を捧げると、すぐに右の舞台から退場し、

歴史上最も偉大なこの物語から立ち去るだけでなく、ヘロデ王が自分たちに命じた命令を

完全に無視しました。これこそが真の権威者の姿だと私は思います。

ヘロデ王は自分の中にある恐怖を隠すために、毛皮のコートを身にまとい、軍隊の力、武力

の脅威、社会的圧力という人間的な権威を行使し、恐怖に対処しました。今日のお話しを読

むとき、私たちはヘロデ王を権威者として見てしまうでしょう。なぜなら、私たちは王が物語

の主役であることを期待し、権力を持って命令を下し、人々が王という権威に従うことを考え

ずとも期待しているからです。私たちは、権威者というものは支配的で、潜在的な脅威に恐

ろしく気を配り、困難に素早く対応することを無意識下で知っているのです。

しかし、この世の期待とはかけ離れた神様からくる権威は、権力を断固として握りしめるので

はなく、権力を放棄することから始まります。ただ、創造主を探し、星がどこに行こうとも、そ

れを追いかけた占星術の学者たちのように。権力をこのように放棄する時一体、何が起こる

のでしょう?

占星術の学者たちは、神様の導きに耳を傾け、自国を後にし、習慣も知らず、言葉さえ十分

に理解できないかもしれない遠い外国の首都エルサレムへ赴き、凝り固まった権力構造に

とって極めて脅威的な神という存在についての質問を始めます。そこには嘘も策略も駆け引

きもありません。ただ正直であること、そして全能である神様を探す旅に戻りたいという熱望

があっただけです。すると、凝り固まった権力構造の究極の先端である王が、学者たちに権

力を行使し、学者たちの開かれた心を自らの政治的目標に屈服させ、王自身が実行しよう

としている大虐殺に加担させようとします。そのような悪の計画に対して学者たちは対立で

応じることはありませんでした。「何を言っているんだ?」と言うこともなく、拒否や反対を大々

的に宣言することもなく、また一度として、まだ見ぬキリストへの信仰を告白するのでもなく、

誇らしげに立ち上がり、主張することもしませんでした。

学者たちはただ立ち去ったのです。幼子イエスを見つけたら、エルサレムに戻り、王に詳細

を教えるという王の権威者としての命令に、学者たちは従いませんでした。学者たちは王が

企む悪の意図と計画に背を向け、王である幼子キリストの足元に贈り物を置き、立ち去りまし

た。正しい者、善良な者の真の権威は権力から来るものではなく、神様が私たちの前に示さ

れた道への謙虚な服従から来るものです。正しさへの道を論じることはできないし、恵みへ

の道を叫ぶことも、愛への道を暴力を持って築くこともできません。剣の先で買われる正義

は正義ではないし、愛は敵の血から引き出されるものでもありません。主を愛し、主に仕える

ことで、私たちには「和解者、世界の癒し手、城壁の破れを直す者、道を直して人を再び住

まわせる者」となる神の権威が与えられているのです。

王宮を出て、腐敗した王国の権威に背を向け、真の王を探し求め拝み、贈り物を捧げ、質

素で卑しい家を立ち去る時、二度と同じことのない世界へと歩き出します。占星術の学者た

ちは愚かではありませんでした。賢者だったのです。学者たちは自分達の行動により、ヘロ

デ王の怒りが最後には自分たちにも及ぶ可能性があることを知っていました。ヘロデ王は、

自分の権威の座を揺るぎないものにするために、幼子イエスと同時期に同地域で生まれた

多くの幼児を虐殺しようと恐ろしい計画を企ていたのです。そんなヘロデ王はもちろん占星

術の学者たちにも危害を加えることが容易にできたはずです。

しかし、神様の権威を単純に受け入れ、立ち去るという単純な行為によって、3人の外国人

占星術学者たちは、創造主の名誉ある賢いしもべとして永遠に記憶されることになります。

何千年も経った今でも、私たちは占星術の学者たち、賢者たち、東方の博士に関する歌を

教会で歌い続けています。一方ヘロデ王に関しては、大量虐殺という殺人に追い込んだ恐

怖、権力欲に満ちた心の中に住みついた邪悪さだけが記憶されているのです。

キリストに目を向け、権力の命令に従うことを拒む人々の静かな抵抗によって、世の中の王

権は破壊されます。私たちに与えられた啓示(エピファニー)とは、こうです。私たちの時代

に働かれる神様の御業において私たちの役割を果たすために、時に私たちに求められるこ

とそれは、裕福な人々や権力者に背を向け、私益のために友好関係をキープした方が良い

人々や物事から身を引き、ただ立ち去ることと

と。非常にシンプルなことなのです。みなさんはどうでしょうか?今年あなたが示されている、

立ち去らなければいけない物事あるでしょうか?立ち去らなければいけない人々はいるで

しょうか?思いを巡らせてみてください。

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