ヴァンアントワペン ドナルド牧師
Unfinished Community 2024年2月4日
イザヤ書40:21-31 マルコによる福音書1:29-39
もうだいぶ昔のことですが、今日は、私の一番上の子供の保育園の初日に、子供を学校まで送りに行った時の話から始めたいと思います。その日はとても素晴らしい天気で、暖かく晴れ渡り、風も穏やかで、私たちは早起きして余裕を持って出かける準備をしていました。保育園までは歩いて5分ほどの距離だったにもかかわらず、私たちはただのんびりと歩道を歩きながら、おしゃべりをしたり、微笑んだりしていました。私の子供は今まで見たこともないほど興奮していました。やっと他の大きな子供のように学校に行けるという思いが彼女を満たしていました!未来は想像を絶するほど明るい。その瞬間、私も隣で幸せを噛み締めつつ、すべての親が自由で、好奇心に溢れる子供たちに質問する質問を頭に思い浮かべました。
「大きくなったら何になりたい?」
もちろん、親なら誰だってその質問を子供にしたいはずです。自分の素晴らしい子供が将来に対して、どんなエキサイティングなアイデアを持っているのだろう?それは想像もつきません。医者になりたいのかな?それとも芸術家?音楽家?私が、子供のときは、自分は宇宙飛行士になるんだと100%確信していました。自分の子供はどうだろう?もしかしたら、お父さんやお母さんのように牧師になりたいと思っているのだろうか?
一番上の子供は、あらゆる点で私に似ています。いつも返答がとても早く、決して話すことを止めないのですが、その時はそうではありませんでした。実際、彼女は「将来何になりた
い?」という質問を受け、普段寝る前にさえ見ることのできない姿を私に見せたのです。彼女は動きを止め、沈黙の中、真剣に考え込んでいました。
太陽は輝き、そよ風が吹いていました。動きを止め、沈黙の中、私の子供はただ心の中で起こっていることに耳を傾け、その中に宿る無限の可能性を見出そうとし、その可能性を前に自分がどうあるべきかをほんの一瞬想像したのです。大人という制限に縛られていない子供だけが真にできる、深い霊的な識別を目の当たりにし、私はその美しさに心を打たれまし
た。
聡明な私の子供は、微笑みながら大きな茶色の目をきらきらと輝かせて私に向けました。私は彼女に示された啓示を聞く準備をしました。無限にある選択肢の中から、私の素晴らしい子供がどの選択、どの職業を自分のものとして選んだのかを聞くのが待ちきれませんでした!
すると彼女はこう言いました。
「Pastornaut!」(牧師Pastorと宇宙飛行士Astoranutをかけ合わせた人のこと:子供自身が頭
の中で作った造語)
「Pastornaut!」
子供の答えを聞いた時、正直言って、何が起こったのか理解するのに時間がかかりました。つまり、私の子どもは、私たち大人たちが掴みうる数多くの職業の可能性をすべて検討し、その中で自分の内面を最もよく表現しているものはひとつもないと判断したわけです。だから、自分に合わない箱に自分を詰め込もうとする代わりに、より自分に合う新しい箱を作ったわけです。
「Pastornaut!」宇宙牧師とでも呼んだらいいのだろうか??
子供の答えの真意を理解した時、私の心は葛藤を覚えました。私は心の奥底で、子供の答えに真に応答するというのはどういうことかと自問しました。現実を子供に伝えるべきか葛藤したのです。「我が子よ、宇宙牧師?そんな職業はないよ。存在しないよ。」そのように伝えることが親としての愛情なのだろうか?
その瞬間、私は現実が私たちに押し付ける閉所恐怖症のような重圧を覚えました。現実という破れない法則が、私たちをただひとつのものであること、ただひとつの方法で生きることを押し付け、縛りつける。そうでなければ、世の中は混沌として破壊的となり、人間は生存不可能とさえなってしまうから。
私は、自分が子供のころに受けたのと同じ、そして私だけでなく、私たちのほぼ全員が(何度もとは言わないまでも)一度や二度は受けたことのあるのと同じ痛烈な一撃を、自分の子供に与えようとしていることに気づきました。私は、自分の幼い子供が素晴らしい超越的な考えを持っていることを目撃したのです。私の子供は、現実、そしてこうあるべきという考えを捨てて、神様が用意しているかもしれない無限の可能性に対して自分自身を完全にオープンにし、神様の霊が自分に注がれることを許し、それを受け入れたのです。
自分の子供に語られたビジョンを現実的ではないとか、そのような職業は存在しない、それが間違っていると言うなんて一体私は何様のつもりなのだろう?子供が心で感じた美しい無限の可能性を、不可能だと何故私が言えるのだろうか?
神様の創造の無限の可能性を、有限なものだと決めつけることを誰ができようか?
神様は「無限」であるとキリスト教の信仰は教えていますが、私たちはその意味を本当に理解しているでしょうか?真に無限である神様を礼拝するとはどういうことなのか、真剣に考えたことがあるでしょうか?私たち自身がその無限に似せて造られるとはどういうことなのでしょうか?
イザヤは今日の聖書箇所を通して、私たちの理解を超える神様の無限性を表現しようとしました。神様の視点から物事を見、イザヤは私たち人間すべてを単なるバッタと例え、一時司どる王子や王の支配も、やがて枯れ、茎も枯れ、神様という植物だけが残るのだと語ります。神様の存在が無限であることを証明しようとしたときに、45億年前というはるか遠い昔に作ら
れた地球さえも、時間そのものの枠を完全に超えて存在する神様の無限という性質には匹敵することができないのです。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなくその英知は究めがたい。
(イザヤ書40:28)
神様のご性質である無限性に最も近いもの、それは眼下に広がる空ではなく、数学です。円の直径に対する円周の長さの比率、円周率は無理数であり、その小数展開は循環することがありません。もちろん、数学者でも何でもない私たちにとっては、これはほとんど意味のないことかもしれません。しかしよく考えてみると、この事実には、実に深い意味があるのです。
というのは、円周率そのものも神様による創造の一部であり、その無限の可能性の連鎖がいかに心を揺さぶるものであっても、私たちの創造主である神様という計り知れない超越的な無限性に比べれば、それは微々たるものなのです。
そして、私たち一人一人はそんな無限の創造主に似せて造られ、命を吹き込まれたの生き物なのです。
さてここで、マルコによる福音書に目を向けて見ましょう。マルコの福音書にある今日の聖書箇所では、イエス様がヤコブとヨハネを連れ、シモンとアンデレの家を訪ねに行きます。するとシモンの姑が熱を出して寝込んでいることを知ります。詳しい説明は省きますが、よくよくこの箇所を原語で読んでみると、この熱は風邪などの軽い症状のものではなく、シモンの姑が慢性的な症状に苦しんでいたことを示唆しています。当時、熱病を治療することは決して小さな事柄ではありませんでした。イエス様が彼女の手をとると、彼女の熱が下がったと聖書にはありますが、それはまさに奇跡なのです!
私たちはイエス様が起こされた奇跡の本質について語り続けることもできるし、その直後に起こる「悪霊の追い出し」のこと、あるいは熱が去ったシモンの姑が「仕える」ためだけにベッドから起き上がったように描かれている事実についてもっと長く語ることもできます。しかし私が今日掘り下げたいのはそれらのことではありません。
その日の夕方、日没になると、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエス様のもとに連れて来ます。すると、町中の人が戸口に集まりました。イエス様はそこで、さまざまな病気で苦しんでいる大勢の人々をいやされました。(マルコによる福音書1:32-34)
イエス様が病人を癒すことができるとわかるや否や、弟子たちを含むイエス様周囲のコミュニティ全体が、イエス様を有限の定義というその箱の中に閉じ込めはじめます。一瞬のうちに、イエス様は人々の間で「医学博士イエス」として知られるようになり、町中の人々は聖霊の存在を感じたからではなく、イエス様が今している癒しを続けることを期待しました。人々はイエス様をこのたった一つの癒しという行動によって定義し、人々はイエス様が他にどのような方であるかを知ろうとはしなかったのです。
イエス様は癒し主。 彼は癒し主のイエス様なのだから、癒しをこの町で施し続けるに違いない。まさに今晩がその時だ。
しかし、そのような人々の思惑とは別に、イエス様は朝早くまだ暗いうちに起き、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられました。
(マルコによる福音書1:35)
弟子たちはイエス様を見つけると、町中の人々がイエス様を探し、癒し主であるイエス様ご自身が戻って来て、癒し続けてくれるのを待っているとイエス様に告げます。人々は、イエス様のことは、自分たちが知っていて理解している、癒しという奇跡の働きを目撃したのは自分たちなのだからと、イエス様は私たち皆の癒し主、という風にイエス様を定義づけようとしました。人々はイエス様を、簡単で予測可能な箱の中に押し込めようとしたのです。
人々が知りたかったことそれは、イエス様が大きくなったら何になるのかということだったわけです。なぜイエス様が、計り知れない無限の神様であるイエス様が、人々の期待を裏切り、ほかの町や村へ飛び出した理由がわかりますか?それは人々がイエス様を有限という予測可能な箱に閉じ込めようとしたからです。
イエス様が癒し主ということにもちろん誤りはありません。しかし、イエス様は癒し主だけではないのです。先生であり、説教者であり、神学者であり、文字通りメシアであり、神様の実の子であり、実を結ばないイチジクの木や、神殿に蔓延っていた資本主義を憎むという、癒し主のイメージとは想像もつかないような怒りを持つ方でもあるのです。人々はイエス様がもたらす無限の性質を理解してはいませんでした。イエス様は癒し主だけではなかったのです。
イエス様の癒しの働きは創造主の神様による特注品であり、大量生産することはできませんでした。イエス様が人里離れたところに退いたのは、人々の有限の期待が満ちる環境から、無限の力、可能性が流れる神様の元に行かなければいけないと自覚したからです。
私たちは皆、奇跡を目撃するとき、町の人々と同じ行動を取ります。私たちは無限をコント ロールしようとし、自分たちの理解に従って奇跡の働きを体験、目撃することを望みます。しかし、神様はそのような人間の思いに逆らうのです。イエス様を家の中に閉じ込めることで、イエス様の癒しを目撃し続けることはできません。イエス様は癒し主だけではないからです。
神様のご性質である無限性は私たちの中にも反映され、生きています。私たちはそのことを知り、そのことを受け入れなければいけません。神様の無限性は、私たちを通して、私たちの言動を通して生きているのです。
私たち一人ひとりは、無限の神様の似姿として造られ、固定的でも限定的でもなく、ひとつの形や表現に縛られることもなく、ひとつの存在様式や生き方に制限される必要もありません。私たち一人ひとりは、神様から無限の可能性を託されています。
多様性は神様から与えられた私たち人間の強みであり、一人一人が持つ独自性は、神様に似た側面なのです。
愛、憐れみ、すべての神の民の間の和解、正義、平和。これらはすべて、私たちを隔てるも
のは何もないという認識、つまり、私たち一人ひとりの間にあるすべての違いは、私たち一人ひとりを通して輝く神様の無限の美のプリズム、色とりどりの反射にすぎません。
神様はご自身の無限というご性質に似せて、私たちが好かない、嫌な思いを抱いている人たちでさえも、創造されました。
だから今日、私はこのことを伝えたいと思います。私たち一人ひとりの中に生きる神様の無限性を汚れたもの、塞がなければならないもの、壊さなければならないものとして否定しようとするのをやめましょう。私たち自身を一つの窮屈な形に押し込め、堅苦しい箱に収めることをやめましょう。そうではなく、私たち一人ひとりに神様の反映として与えられた独自の美しさが宿っていることを受け入れ、私たちが出会う一人ひとりをそのように扱おうではありませんか。
私はこう願います。私たちが自分自身に目を向け、自分は一体何者であるのかと自問する時、みなさんにはこうあってほしいと願っています。立ち止まり、太陽の暖かさと心地よさに浸り、そよ風を感じ、驚きと感嘆に満ちた目で創造主を見上げ、将来は「Pastornaut(宇宙牧師)」になるとかつて私の子供が言ったように、みなさんにも無限の創造主が与えるみなさんお一人おひとりに与える答えを素直に聞き入れ、それをなんの恥じらいもなく宣言できます
ようにと。
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