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Rev. Don Van Antwerpen

準備につきまとう不安

これは、2023年12月3日(日)、ドン・ヴァンアントワペン先生がUnfinished Communityの信徒に向けて行った説教である。

旧約聖書: イザヤ書63:19-64:8

新約聖書: マルコによる福音書13:31-37


今日はアドヴェント(待降節)の最初の日曜日です。アドヴェントはキリスト教暦の1年の始まりであり、クリスチャンにとって新年の時です。アドヴェントは、キリスト教歴の中で私が最も好きな季節のうちの1つなのですが、近年、アドヴェントが何なのかをまったく知らない方々が多いことに驚いています。クリスマス前に牧師たちが皆、奇妙な理由で世の終わりについて語り始める時期だとしか思っていない方々もおられるようです。


そして正直に言って、今日の聖書日課から示される聖書箇所は、その傾向を助長するように思います。神様に天を裂き、山々を揺れ動くようにと言うイザヤ書では、「喜んで正しいことを行う者」「汚れた者」との比較がされています。マルコによる福音書の箇所は、キリストであるイエス様ご自身が「その日、その時は、だれも知らない。」「家の主人がいつ帰ってくるのかは分からない」と語ります。私たちの多くがこれらの事は文字通り世の終わりについての警告だと聞かされてきました。まさしく不安を煽るような言葉です。


キリストの誕生を祝う準備をしているときに、なぜ黙示録に出てくるような世の終わりに関する不安で一年を始めなければいけないのでしょう?なぜキリスト教の一年をクリスマスから始めないのでしょう?クリスマス・キャロル、キャンドル・サービス、子供たちのページェント、クッキー、プレゼント、その他のもろもろのお楽しみから一年を始める代わりに、なぜアドヴェントという4週間の季節を過ごさなければいけないのでしょうか?新年のお祝いの代わりに、なぜ不安から一年を始めるのでしょう?実はそれは単純な理由です。


そして私たちの多くにとって、この理由は辛い事実です。しかし聞くのに必要な真実なのです。もし私たちが、罪のない可愛い赤ん坊のイエス様の到来を喜んで受け入れることで1年を始めるつもりなら、自分自身を、地域社会を、そして世界を見つめ、受け入れ難いかもしれませんが、私たちにはまだその準備ができていないことを認めなければならないのです。周りを見渡してみてください!石油やガスがそこらじゅうにまみれ、何世紀もの間、私たちが一掃できずにいる体系的な不公正があります。私たちは権力者を王座から引きずり下ろし、低く、小さき者達を引き上げ、飢えた人々を良いもので満たし、金持ちを空っぽにして追い出すことさえ始めていないわけです。そうです、私たちはまだ赤子のイエス様を迎える準備ができていないのです。まだ。


どんな理由であれ、家に誰かを招くことになると、妻と私はたいてい数時間から数日もかけて家の隅々まで掃除をします。先週はガス会社の訪問が予定されていたが、それさえも半日かけて徹底的に掃除する必要がありました!そしてそのようなことをするのは、私たちだけではないはずです。私たちのほとんど全員が、誰かが家に来ることがわかっているときは、いつもより念入りに掃除をするでしょう。我が家を清潔に、快適に、そして「ふさわしく」見せようとします。しかし、その理由は何でしょう?知人や職場の同僚、友人、あるいは見知らぬ人が家にやってくると、私たちはそれらの人々が自分達の家を裁く事を恐れて完璧に見せようとする傾向があります。他人が私たちの家の中の不完全な部分を見て、そのせいで私たちを低く評価したり、私たちが汚れている、適性がない、何か価値がないと考えたりするのではないかと想像するからです。私たちが必死に掃除をするのは、裁きを恐れているからなのです。


しかし、親愛なる友人や家族など、大切な人が訪ねてくる場合はどうでしょう。例えば両親が訪ねてくるとしたらどうでしょう?しかし、両親と良い関係にない人達がたくさんいることも知っているので、そのことも心に留めなければいけませんが。私が言いたいのは、それが誰であろうと私たちが本当に愛している人たちがやってくる時、私たちの家の掃除は明らかに違うやり方になるということなのです。大好きな人がやってくると聞く時、私たちは自分の家を最高のものにしたいと思いませんか?その人の到着を準備することは、恐れを招くものでもなく、愛を示すためにすることであり、自分にとってその人との関係をどれだけ大切にしているかを示すためのことになるわけです。


だから、私たちは頑張ります。自分の考える完璧さではなく、訪ねにくる大切な人の視点から家を整えることに集中するのです。もちろん、隅々まで徹底的に掃除することは変わらないかもしれません。しかしそれが終わったら、その人の好きなお菓子を買いに行き、その人が好きだと知っている飲み物を買い込み、その人の好きな映画やゲームなどを準備し、その人が好む方法でゲスト用のベッドを整えます。実際、時間が足りなくなれば、完璧に掃除をすることを諦めることをするかもしれません。それはその人が私たちを大切に思ってくれるから、多少家が汚れてくれても許してくれると思うからです。誰が自分の家に来るかわからないとき、私たちは恐れから、あり得ないほど厳しい基準で掃除をします。しかし、私たちがよく知る愛すべき人が来るとき、私たちはいつもとは、少し違った方法で掃除をし、家を整えるのです。


実のところ、アドヴェントについて本当に知っておくべきことはこれだけです!私たちはイエス様のために掃除をしているのです。アドヴェントは、私たちとイエスとの関係を理解することで、キリスト教年の一年の初めのこの季節をどのように過ごすべきかを教えてくれているのです。信仰の道を歩み始めた最初の頃、私たちはイザヤと同じように、主の到来に対してアプローチしていることに気づくはずです。預言者イザヤは、彼の周りの国や世界が罪深いことを知っていました。彼は、それぞれの家の掃除が必要であることを知っていたし、人々に掃除の必要性があることを伝えることが、彼に与えられた仕事だったわけです。しかし今日の聖書箇所では、私たちの多くが信仰を見出したばかりの頃のように、家の掃除について語っています。全能の創造主である神様にとって地上の家の掃除は、それほど大きなことではないわけです。イザヤは神様が降臨し、天を裂き、神の臨在で山々を揺り動かすことを強く望んでいます。イザヤは、火を燃やし、水を沸騰させ、神の正義、優しさ、尽きることのない憐れみを敵視するすべての者たちが、主の輝かしい栄光が世のすべての暗い場所に照らされる時、正しい行いをする者はすべて光の中に包まれ、正しくない者は汚れた布にすぎないことが明らかになるのを恐れて震え上がることを望みます。神様がこのように世界を一掃してくださるのなら、なぜわざわざ不正と戦う必要があるのでしょう?ただ座って、神様に悪の一掃をお願いすればいいのではないか?


しかし、信仰が成熟するにつれて、私たちは、マルコによる福音書でイエス様が表現されているように、神様との関係をより深くとらえるようになり、私たちは神様が一掃されるのをを待つように召されているのではなく、主の到来を待ち望みながら私たち自身が一掃の掃除をするように召されているという重要な事実を理解するようになります。神様の正義、憐れみ、愛をこの世で行うことは、神様が示されたその時に来てくださるのをただ座って待つことではなく、神様が所有するアパートの賃借人として、私たちはそこに居住するものとして課せられた掃除の責任を果たす事だと気づくのです。この場所を建てたわけではないかもしれないが、私たちはここに住んでいる!そのことに気づけば、目の前の大掃除にどのような心持ちで臨むかを決める時、私たち自身といえウス様との関係が明らかになります。


もし私たちが、来臨されるキリストを客人、それも名誉ある客人として扱うなら、私たちの大掃除は恐れから来るものとなります。もしキリストが、私たちが会うのを楽しみにしていても、まだ見知らぬ人であるならば、私たちがする掃除の仕事は、キリストの裁きを恐れ、私たちの地上の家がどれほど散らかっているか、どれほど罪深いものになっているかを見た時、キリストが私たちのことをどう思うかを心配しながら行うことになります。


恐れの中で、私たちは今日の聖書箇所を黙示録として読んでしまうでしょう。恐怖の中で、私たちは「門番が目を覚まして見張る」という呼びかけを警告として聞き、イエス様が到着し、私たちの小さな教会と空の献金皿を悲しげに見て、私たちが自分の頭と心の中で、世の中の社会的・文化的な「ルール」の長いリストに従って、私たちの家を厳格で妥協のない秩序に従って保っていないことを非難する瞬間を恐れて生活するようにと言うと理解してしまいます。しかし、キリストをそのような来訪者のように扱うのをやめ、私たちが愛する者としてだけでなく、私たちを心から愛してくださる方として理解し始めるとき、イエス様が私たちの家がどれほど散らかっているかをすでに知っておられることを理解するとき、イエス様は以前にも私たちの家に来られたことがあり、そこでまったくひどい取り扱いを受けたこともあり、それでも愛のうちに毎日私たちの生活の一部になるために、家に来たがっていることを理解するとき、このような観点からキリストを理解するとき、私たちの家の掃除の仕事は全く違うものとなります。愛に基づき私たちが仕事をする時、裁かれるかもしれないという恐れに基づくものではなく、天における神様を反映するような世界をこの地上に作りたいという愛に満ちた願いから、掃除の仕事を始めるわけです。私たちはもはや、自分の失敗を裁かれたり非難されたりすることを心配するのではなく、世界の掃除という偉大な仕事において私たちを励まし支えてくれる親愛なる友人の愛に満ちた訪問、抱擁を待ち望むようになるのです。


キリストの愛を受け入れるとき、私たちは、神様が誰であり、神様が何を望んでおられるのかということを基に、この地上での掃除のやり方を考え始めます。善であること、正しいこと、真実であることの意味について、私たち人間の部分的な理解に従って、自分自身を清く正しくしようとするのをやめ、私たちが愛するイエス・キリストについて私たちが知っていることに基に、自分自身と私たちの世界を掃除し、形作ろうとし始めると、私たちの準備の姿は全く違って見え始めるのです。私たちが愛するイエス・キリストについて知っていることに従って、私たち自身と私たちの世界を形作ろうとし始めるのです。(コロサイの信徒への手紙3:2)私たちが愛するキリストの到来に備えるとき、私たちはもはや、主人が裁きと怒りをもって戻ってくる前に急いで家を掃除する恐るべき奴隷ではなく、準備のために家を掃除し、主の到着をわくわくしながら待ち望み、この時間を使って神様がお好きだと知っていることを追求する、親愛なる友人となります。 力ある者をその王座から引き降ろし、小さく、低い者を引き上げ、飢えた者を良いもので満たし、富める者を空しく追い払い、貧しい者に良い知らせをもたらし、捕らわれ人に解放を告げ、目の見えない者に視力を回復させ、虐げられている者に自由を告げる。主が恵みをお与えになる年がくることを告げるのです。


神様が再び私たちと共に、私たちの間を歩んでくださる素晴らしい時がやってくる。神様が再び私たちとともに、私たちの間を歩んでくださる素晴らしい時がやってくる。だからこそ私たちは、イエス様の栄光の到着からではなく、キリストが来られる道を準備することから1年を始めるのです。キリストが私たちを愛してくださるのと同じように、私たちもキリストに愛されていると感じられるように、私たちはこの地上の家を、天にあるキリストの家のようにするように召されているからです。キリストが私たちを愛してくださるのと同じように、私たちもキリスト愛し、キリストを地上の家に迎えます。私たちは毎年、裁きや不安や恐れではなく、愛をもって一年を始めるのです。


アドヴェントの季節は愛の時であり、キリストがやって来る準備をする時であり、私たちの家、私たちの世界を最も歓迎される場所にするためにワクワクしながら働く時なのです。キリストが私たちの家に、私たちの心に、そして私たちの人生に来たいと望んでくださるほど、私たちの神様が私たちを愛してくださっていることを嬉しく思う。だから私たちは準備をします。正義のために買い物に出かけ、抑圧を一掃し、床から罪をこすり落とし、飼い葉桶のための素敵なリネンのほこりを払って準備するのは、裁かれることを恐れているからではなく、数週間後に愛する方がやってくるからなのです。だから、袖をまくって掃除に取りかかりましょう!

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