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Rev. Don Van Antwerpen

説 教 ---「次世代」

Updated: Jun 11, 2023

宗教法人 単立 芦屋キリスト教会 聖霊降臨後第2日曜日礼拝

2023年6月11日(日)午前10時30分

ヴァンアントワペン ドン 牧師




今日の聖書箇所は興味深いと思います。その理由の一つは、私たちがいつもこれらの聖書箇所を一緒に読むことがないためです。例えば、私たちはしばしば9節のマタイに語られる、弟子としてイエス様についていくようにという呼びかけを一つのこととして読み、次の10-13節を無関係な別の会話として読み、そして14-17節をさらに全く別の会話・教えとして読みます。時間をかけて、この3つの部分をつながった教訓として理解しようという風にはならないのです。

弟子になるよう呼びかけを受け応えるマタイ、ファリサイ派の人々との断食に関する議論、ヨハネの弟子たちとの断食に関する議論という3つの部分は、一見無関係のように見えるかもしれません。しかし、イエス様は、神様がどのようなお方かについて強調するために、周囲のさまざまな人々や状況を利用して語っておられるのです。


イエス様はここで、マタイという全く新しい人物を弟子になるよう呼びかけることから始め、そしてすぐにこの新しい弟子を、教えに厳格に従い、妥協のない神学を持つファリサイ派の人々だけでなく、イエス様と同じ神学的考えを持つ、別の派の人々との議論・対立の場所へと連れていきます。

考えてみてください。マタイは、イエスに従うという初めての経験の最中にいるのです。かと思えばすぐに対立の状況下に投げ込まれます。マタイはすぐに、キリスト教の道を選ぶということは、対立に直面することを避けられないこと、つまりキリストに従う人々は、世の中の伝統や期待に対立する状況を避けられないこと理解するのです。


マタイは、イエスに従うと決めたとたん、当時の厳格な宗教的伝統の信念と、神様がイエス様とその弟子たちの前に敷いた混乱と困難の道の間の矛盾の問題に直面します。マタイが直面した矛盾は、この福音書の中で私が最も好きな質問から始まります。


「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マタイによる福音書9:12)


ここで、この「罪人」という言葉にじっくりと向き合ってみたいと思います。イエス様の教えで興味深いと思うのは、イエス様が罪について語るとき、非常に具体的であることです。詳しい説明に物語を加え、たとえ話を織り交ぜるなどして、その意味を聞いている人に正確に説明するのです。例えば、マタイによる福音書25章を見てみましょう。神様に祝福された者として迎え入れられる人々、対照的に永遠の火の中に入れられる呪われた人々との間に存在する大きな違いについて語るとき、イエスは単に呪われた人々を「罪人」と呼ぶことはしません。そうではなく、その意味・理由を具体的に説明するのです。


「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」 (マタイによる福音書25:42)

罪の話が出てくるとき、イエス様は必ずしもいつも明確ではないかもしれません。たとえ話は時にある人にとっては混乱を招くこともあります-が、イエス様はたいてい具体的な話をするのです。イエス様は、とあるグループを単に「罪人」と呼び、誰が罪人であるかは自明であり、その場にいる全員が単純かつ明確にそのことを理解できるかのような言い方・教え方はされません。イエス様は、「罪人」という言葉には意味があり、そして、その言葉の定義が明確でないことを知っておられます!

ですから、今日のお話の中で、イエス様が特別に選んで一緒に夕食をとることになった人々に対して、罪人という言葉が投げかけられたのを聞いたとき、イエス様はそれらの人々を全く違うように呼ばれたのです。

私たちの多くがそうであるように、ファリサイ派の人々は「罪人」という言葉を、自分たちの厳格で非常に狭い「正しい人」の定義に入らない人々を指すのに使っていました。「正しい人」の定義は聖書に根ざしたものである場合もありますが、多くの場合、文化的に作られたものでした。例えば、徴税人は社会的に嫌われていましたが、聖書は徴税人が罪人であるとは言っていません!今日のお話はファリサイ人にとって「罪人」とは、貧しい人、飢えた人、律法上「汚れた」人(例えば日本の被差別部落民のように)、不従順な女性、サマリア出身の人、病気の人たちのことを指していました。社会のあらゆる種類の抑圧、苦しみにもがく、マイノリティーを指し、ファリサイ派の人たちはそれらの人々を「罪人」とみなし、そのように扱ったのです。


そのような人々はイエス様が何の考えもなく、一緒に座って食事をすることを選ばれた人々です。イエス様は、社会で成功している人々ではなく、社会で苦しんでいる人々のそばに座ることを選ばれました。社会に受け入れられ、歓迎される人ではなく、虐げられ、拒絶され、仲間はずれにされた人たちと一緒に座ることを選んだのです。そして、ファリサイ派の人々に説明したように、イエス様は、社会的適合の基準で人々を見るのではなく、アウトサイダーである人々に慈悲を示すことを選ぶのです。


イエス様にとって、はみ出し者に注ぐ愛は、居心地の良さよりも重要なことなのです。

そして、そのファリサイ人たちがふらふらと去っていくと、次にヨハネの弟子たちがやってきて、ファリサイ人たちはよく断食するのに、イエス様とその弟子たちはあまり断食しないのはなぜですかと尋ねます。(マタイにおける福音書9:14) ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは、違う派に属している。けれども少なくともこの基本的な伝統的な習慣、何世代にもわたって教会で受け継がれてきた重要な儀式、何世紀にもわたって変わっていない物事のやり方においては違いはないだろう。断食。断食は良いことで、真実な正しいことだと思っていたのでしょう。


イエス様はまたもや、そのような考え方を否定します。酒を入れる皮袋は古くなるともろくなるものなのです。硬くなり、ひびが入り、壊れやすくなります。もしあなたが、昨日もうまくいったから明日もうまくいくだろうと、ワイングラスを取り替えないなら、ワイングラスに新しいワインを何度も何度も注ぎ続けるなら、ワイングラスはいずれ漏れ始めるでしょう。それは教会も同じです。


最初はほんの一滴か二滴、目に見えないほど小さなものなのです。しかし、やがてその雫が小滴となり、その小滴は破れとなって皮袋から漏れ始めます。そのうちに、あなたが無視してきた皮袋は、酒を入れることができなくなります。どんなに頑張っても、どんなに努力しても、隙間から床に酒を流し込むだけになってしまうのです。


底に溜まった酒は残るかもしれないが、そこに新しいものを入れようとしても何も残りません。


どんなに努力しても、そのぶどう酒の皮袋に再び新しいぶどう酒を入れることはできないのです。

これがどのように教会に当てはまるか考えてみましょう。世界中の多くの教会が、新しいプログラムを作り、友人を招き、コンサートやパーティーなど、思いつく限りのことを行い、新しい人を呼び入れるために、新鮮で新しいワインをコミュニティに注ぎ込もうと努力しています。


しかし、教会がいつも同じであってほしいと願っているのです。つまり古いぶどう酒の皮袋に新しいぶどう酒を入れているのです。


そのため、私たちは新しい人々を招き入れることに力を注ぎ、古いシステムに適合させようとしますが、新しい人々が破れた皮袋の隙間から落ちていくのを、私たちはなすすべもなく見ています。現代における最大かつ最も困難な倫理的・道徳的問題に取り組んでいる若者たちが、洗練された礼拝を提供し、ピカピカのギター、大音量の音楽にまみれた教会を訪れても、そこに彼らが直面している問題の答えを何も見いだせないのです。慈悲と恵みとわずかな希望を求め、翌月の給料を稼ぐために日々奮闘している家族が教会を訪れる時、予算がないから、献金が減っているからと経済的に困窮している人を追い払う少数の富裕層が運営を掌る教会を見つけたとします。


新しい酒が床にぼたぼたとこぼれるのは、安全性と安定性が教会の焦点となっているからです。


そんな中イエス様はどこにおられるのかと礼拝堂を見渡すと、なぜ酒の皮袋のたとえが、今日の聖書箇所の最初の罪人についての質問と対になっているのかがわかります。つまり今日の聖書のお話は、イエス様が、伝統的な教会のひび割れた古い酒の皮袋の中で安全で慎重に生きてきた、「正しい」やり方をする人たちとは一緒に集まらないことを示しているのです。


イエスの愛の業は、古い酒の皮袋の中にあるのではなく、外にあるのです。


私たちが知らないことを、イエス様は知っておられるということを私たちは知っておかなければなりません。教会の次世代は、異なる人、珍しい人、奇妙な人々の間で大きくなり、新しい息吹が芽生えているのです。教会の次世代は、私たちがまだ理解できないような生き方をしている人たち、しかし、私たちの誰よりも神様に似せて作られている人たちの間に集まり、働かれているのです。


イエス様は、教会の次世代が、私たちの破れた古いぶどう酒の容器に収まらないことを知っておられます。だから、私たちはそれを捨てなければならないのです。


なぜなら、私たちの教会、キリスト教会のゴールは、とにかく古い皮袋をひたすら忠実に修理することでは決してないからです。キリストの教会の目標は、外に出て、真新しい皮袋を見つけ、喜びと希望と恵みと慈悲と愛で皮袋を満たすこと、自分が安全にいるこの建物の壁から外に出て、神様の完全な愛に溢れる杯を共有できるよう、世界中のすべての失われた、傷ついた人々を探しに行くことなのです。


ですから、私たちは、心から、心から、魂からキリストを愛する人々として、新しい皮袋を探し始めましょう。虐げられた人、苦しんでいる人、貧しい人、追い出された人のそばに座る教会になるための新しい方法を。


アーメン。


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