ヴァンアントワペン ドナルド牧師
Unfinished Community
2024年7月7日
マルコによる福音書6:1-13
皆さんご存知かどうかわかりませんが、私はミレニアル世代です。1984年生まれの私は、よく悪口を言われる世代、ミレニアル世代の一員なのです。
もちろん、ある世代の一員であることは恥ずべきことではないのですが、経済に関する英語のニュース記事を読んだことがある人はミレニアル世代が世の中にどのように見られているかをご存知ではないのでしょうか?ミレニアル世代はダイヤモンド業界を殺し、ミレニアル世代はゴルフ業界を殺し、ミレニアル世代はアメリカのワイン業界を殺した。実際、私は最近、「ミレニアル世代は食べるのか」という2016年に書かれた記事を見つけました。その記事は、経済データが示すように、私たちの世代は他の世代よりも外食が圧倒的に少なく、どういうわけか食料品への支出も前の世代よりもかなり少ないということを連ねていました。
もしあなたが私のようなミレニアル世代なら、あるいは少なくともクリティカルシンキングのできる人であるなら、すでに問題に気づいているのではないでしょうか?ミレニアル世代の一人に実際に話を聞いてみれば、あなたが真実を追求するジャーナリストなら、このような記事を書く前に気づくことがあるはずです。
ミレニアル世代は食べているのか」という記事が8年以上前に書かれたことからもわかる通り、私たち、ミレニアル世代の誹謗中傷は今に始まったことではありません。悪意に満ちた、ひどい、恐ろしい、ダメなミレニアル世代が、あらゆる産業、伝統、慣習を破壊しようとしていることを訴えるニュース記事が、ここ数十年続いた結果はこうです。私は今月40歳の誕生日を迎えるのですが、私たち世代が専門家として、あるいは何かの専門家として真剣に受け止めてもらうことはほとんど不可能なのです。
真剣に一人の価値ある者として社会に受け入れられない。それは何もミレニアル世代だけが経験していることではありません。LGBTQIA+の人々、マイノリティの人々、そして多くの女性が経験していることなのです。
そしてイエス様もその一人です。
今日の聖書箇所を見てみましょう。イエス様は自分の故郷に戻ってきました。イエス様はしばらく故郷を離れていたのです。おそらく、ラビとしての教育を受け、聖職に就くために、若い頃に故郷を離れ、それ以来、少なくともいくつかの伝道に携わってきたのでしょう。そして今、彼は故郷の地を訪れたのです。「立派になった成長した私たちの少年」 が、ついに帰ってきたのです。それだけではありません。彼は文字通り神の子、メシアそのものであり、故郷に舞い戻った今、全ての人に公正で、愛に満ちた、より良い世界への道を示すために戻ってこられました。
しかしイエス様は故郷の地でどのように扱われたでしょう?
「あの男!自分を何様だと思っているんだ。どうしてあんな口のきき方をしているのだ!?」
「彼はただの大工の息子だ!彼に何がわかるのか!」
ルカによる福音書には、人々のイエス様に対する態度がさらに厳しく書かれています。人々はイエス様を神殿から崖の上まで追い出し、すぐに殺そうとしています。イエス様の故郷の人々の反応は、神様の言葉が同郷の人間、自分達の仲間によって伝えられたことを喜ぶのではなく、それをイエス様を退ける理由とし、イエス様の悔い改めを通し、変えられ、成長するようにという呼びかけを、神様からの明確な呼びかけというよりも、たった一人の人間が作り上げた不快なものとして扱ったのです。
イエス様はこの世におけるあらゆる専門知識を持っていたのに、人々はそれをすべて彼自身の意見に過ぎないと否定したのです。
ここに、私たちの多くが長い間悩んできた疑問に対する答えがあるように思います。この疑問は、私が物心ついたときから、キリスト教における共同体、教会に対する疑問でもありました。
教会というコミュニティにおいて中間点はどこにあるのでしょう?私たちの内に働く御霊を認めようとしない人々に出会う時、どのように妥協すればいいのでしょう?「あなたは黙りなさい。おとなしくしていなさい。」と、神様に造られた自分であることを否定したり、変えようとしたりする人々に対し、私たちはどのように妥協したらいいのでしょう?
議論するのでしょうか?規則や規定を作り、境界線を定め、審判所を設置し、教会の中で裁判をし、必要であれば退会、破門を求めるのでしょうか?妥協しなければ、重大で恐ろしい結果を招くと相手側を脅すのでしょうか?それとも完全に屈服し、不浄な沈黙の名の下に正義を放棄した平和の名の下に、自分たち、自分達の声を沈黙のクローゼットに押し込めるのでしょうか?
そうすることで歩み寄りを実現するのでしょうか?
いえそうではありません!
今日の聖書箇所であるマルコの福音書6章5節と6節には、こうあります。イエス様は時折の癒しを除いて、「そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」とあります。町の人々の不信仰がイエス様の癒しの力を奪ってしまったと考えるのは簡単だが、真実はもっと不吉なものです。イエス様はまだ「ごくわずかの病人に手を置いていやされた」とあることから、神性がまだイエス様の中に存在していることがわかります。
LGBTQIA+の皆さん、マイノリティの方々、そして女性たちは、自分達が奴隷になるか死ぬかしか望まない人たちと妥協しようとすることの痛みを知っています。クリスチャンとして、自分たちは和解、妥協、平和のために造られたのではないだろうか?私たちはそのようにして、自分達を見下す人々と食卓を囲むべきなのだろうか?
イエス様はどうされるのでしょうか?今日の聖書箇所に戻りましょう。そこにはイエス様のこのような姿があります。イエス様は人々が彼に不快感を示したにもかかわらず、ご自分の働きを続けられました。悔い改め、愛、恵み、憐れみを語る彼の呼びかけに人々がどんな反応をしようとも、イエス様はただ、神様の恵みの言葉を語り、できる限り神様の御業を行い続けました。しかし、人々は聞く耳を持ちません。イエス様は人々の不信仰に驚きました。そして、自分が去る時が来たことを悟ったのです。
そして、十二人の弟子を自分のもとに集め、二人一組になってできる神様の働きに出かけるようにと彼らを送り出したが、送り出す前に、自分が故郷で過ごした時間から学んだことを彼らに語られたのです。
「 11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
私たちは、この聖書箇所がイエス様が私たち自身の心の健康について何らかのコメントをしているのだと考えがちです。イエス様はまた比喩的な表現で、私たちが町を去るとき、憎む者たちを後ろに追いやるべきだと言っている。街を出るときにサンダルについた埃を払うように、彼らのことは忘れよう。彼らを無視し、代わりにどこか新しい場所に行くのだと。
しかし、この箇所の直前の節をみてみましょう。10節です。イエス様は実際にはこう言っておられます。
10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
人々があなたの言うことが気に入らないときに町を出るということを、イエス様は言っておられません。町から出るときに埃を払うのではなく、誰かの家から出るときに埃を払いなさいと言っておられるのです。その違いに気づかれたでしょうか?
古代中東では、家でのもてなしが重要視されていました。家の中での足の清潔さも大切なことでした。そのため、ほとんどの家庭には使用人がいて、訪ねる客人の足を洗い、サンダルをきれいにし、家の中にほこりを持ち込まないようにし、客人が帰るときにはできるだけきれいにしておくのが使用人の仕事でした。だから、メシヤであるイエス様が使用人のように弟子たちの足を洗ったシーンが、弟子たちには驚くべきことであったわけです。
つまり、誰かの家を出て、家の中のほこりを振り払うというのは、その家を、その家の清潔さを侮辱していることになるわけです。かなり大胆に。
そしてイエス様がこのような方法を選んだことに、彼の意図が隠されています。イエス様は、自分の言葉が聞き入れられないことを悟られます。イエス様は、自分の口からどんな言葉が出てきたとしても、それは若く、未熟な子供の戯言として一蹴されることを悟られたのです。
貧しい人々が黙って苦しみ、やもめは脇に追いやられ、孤児は路上に放り出され、よそ者は立ち入りを禁じられ、飢えに苦しむホームレスの人々は苦しむ続ける。そのことを訴えても、誰も耳を傾けないのです。
しかし、塵は違います。塵はそれだけで証言することができるのです。
送られたその場所を去るにあたって、イエス様は自分が何者であるかを世間に示すために何かを言ったり、何かをしたりする必要はないのです。所詮人々は彼を大工の子供の分際でと見下し、崖に追いやり、彼の教えを無視し、彼が聖典を読んでも耳を塞ぐからです。
しかし、彼らは自分の家に積もり積もった汚れやほこりは取り除くことができません。古代の慣習が評価されずに死んだ皮から生まれた埃。帰属意識のために消された情熱の燃え残りから生まれた埃。ドライフラワーのように棚の上に手つかずのまま置かれ、ゆっくりと家の中を腐敗のベージュとグレーの色調に染めてきた「これまでのやり方」から生まれた埃。私たちが誇りを持って歌いたいと思いながら、恐れのために歌わなかった歌の埃でバルブやパッドが目詰まりし、そのまま放置されたままになっている私たちの楽器の上に沈殿する埃。
自分たちの冷淡さ。自分たちの残酷さ。これらが積りに積もって埃となる。
そしてその埃は、証言しているのです。
霊が働いている場所とそうでない場所を埃が正確に証言できるのであれば、奇跡は必要ないのです。
キリスト・イエスの言葉を聞こうとしなかった地域社会の玄関先で、サンダルから落ちた塵、それが積りに積もってできた埃ほど強い証しはありません。
イエスキリストの揺るぎない愛という壮大な福音を贈られても、誰も耳を傾けようとしない。神様の愛を否定され、代わりに憎しみを優先される体験をすることは、とてもつらいことです。あなたが、神様の愛を伝えるために、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、虐げられている人に自由を、主の恩恵の年の到来を宣べ伝えたために、あなたが玄関から追い出されるとき、あるいはもっと悪いことに、一番近い崖の上から追い出されるとき、イエス様もそこにいたことを思い出してください。
イエス様は、そのような戦いに勝つ方法はないことを知っています。反論したり、議論したり、自分の内にある神の言葉を聞くように人々を説得したりする方法はないことを知っておられました。神の恵み、愛、憐れみを聞く準備ができていない場所で、神の恵み、愛、憐れみを証しするためにあなたができることは何もないからです。しかし、だからといって、それが隠されたままであるとか、この場所で起こったことが世に知られることがないとか、光がそこにおられる人々の間で再び輝くことがないとか、そういうことにはなりません。
そこに積りに積もった埃があなたのために証言してくれるからです。
だから、埃に塗れたそのドアをくぐることを恐れてはいけません。あなたのサンダルからほこりを振り払い、もう一度光の中へ踏み出しましょう。キリストに従って、あなたが思っている以上に、愛を必要とし、憐れみを必要とし、あなたを必要としているところへあなたは導かれているのです!
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